おどけた言語やしぐさで人を笑わせる者。歌舞伎の道化方(道外方)の略としても用いる。語源については,〈童戯〉〈戯気(たわけ)〉〈おどけ〉,斎藤道三(どうさん)の家来の〈道家某〉という名の転訛とするなど,諸説がある。英語のフールfool,フランス語のフーfou,ドイツ語のナルNarrは,愚者,まぬけ,職業的道化師など多様な意味内容をもつ。foolの語源はラテン語のフォリスfollis(〈ふいご〉の意)で,道化の無内容な言葉を〈風〉にたとえたと思われる。他にも類語は多く,貴族・富豪の饗宴に伴食したバフーンbuffoon(これも〈風〉を意味するイタリア語buffaに由来する),宮廷お抱えのジェスターjester,タロット(のちのトランプ)のジョーカーjoker,神話・伝説や儀礼に登場するいたずら者のトリックスター,そしてコメディア・デラルテからサーカスを経てミュージック・ホールや無声映画にいたる民衆的芸能に欠かせぬクラウンなどがある。
これらを整然と区別し定義するのは不可能だが,後述する〈儀礼の道化〉が典型的に示している,固定的な秩序へのおどけた批判者,思考の枠組みの解体者という役割は,あらゆる分野の道化に共通して見られる。オリュンポスの神々のなかでのヘルメスはトリックスター的であり,商業,交換,盗み,旅の保護者,またプシュコポンポス(霊魂を冥界に導く者)として,境界をくぐりぬけ,異なる世界を媒介する。滑稽な踊りを舞って天の岩屋戸を開けさせたときの天鈿女(あめのうずめ)命も,道化的であったといえる。シェークスピアの《夏の夜の夢》で,人間たちの理性を混乱させつつ,自分でも失敗を犯すパックは,妖精としての道化である。民話でも,彦市のようにとんちがあるだけでなく,ティル・オイレンシュピーゲル,P.ラディンの報告したアメリカ・インディアンのトリックスター,中世民話でソロモン王をやりこめる醜怪な無頼漢マルコフのように,とんちと愚鈍さをあわせもち,良識を逆なでする猥雑さや異形性を発揮しなければ,道化とはいえない。
人間の集合的無意識は,諸民族に共通して,〈原形〉としての道化を生み出してきた。それは,文化がみずからの硬直化を防ぐための知恵であったろう。
執筆者:高橋 康也
プエブロ諸族などのアメリカ・インディアン諸社会では,季節祭などの公的な儀礼に,カチナと呼ばれる神々の仮面をつけた踊り手とともに,仮面の道化が登場する。これらの道化は,文化的秩序の中心としての儀礼の主役(神々としてのカチナ)が表す儀礼的荘厳さや社会的価値をからかって擾乱(じようらん)する働きを演ずる。例えばホピ族の夏至祭の中の儀礼では,はじめはカチナたちが村の〈聖なる中心〉である広場で踊っているのに対し,道化たちは広場を遠まきに村の境界近くを回っており,やがてカチナたちに気づかぬ様子で騒がしく広場に入ってきて,カチナに気づくとからかいはじめ,踊りのじゃまをする。カチナたちが退場すると,道化たちによる幕あい狂言が始まる。道化たちは,大食いや糞尿を飲むまね,あるいは性交のまねをしたり,観客をからかって笑いを誘い,聖なる中心としての広場をわが物顔でかきまわし,反社会的な場にしてしまう。ここで強調されるのは,聖なるカチナたちの形式化され抑制された身ぶりに対立する道化たちの一貫性に欠けた動きと無節操ぶりである。この幕あい狂言では,村の最近のできごとなども演技にとり入れられて聖なる伝統が揶揄(やゆ)され,またふだんはしてはならない瀆聖的な行為が笑いとともになされる。そのうちに1人のカチナが,乱痴気騒ぎをしている道化たちに警告をするが,道化たちは無視し逆に悪態をつく。やがて武器を手にしたカチナたちが再登場し,逃げまわる道化たちを捕らえ泥の中に放りこみ,追い払う。こうしてカチナたちは広場を聖なる中心へと戻し,その後,カチナたちが道化たちに食物を分け与えるという和解がつづいて,儀礼が終わる。
儀礼におけるこのような道化は,アメリカ・インディアン以外の他の諸社会においても見られ,いくつかの共通する特徴をもつ。すなわち,異形性,社会の外部を表す異人性あるいは境界性(リミナリティ),禁制の侵犯者としての反社会性,悪を担って追放されるスケープゴート的性格などである。道化はこのような意味での非日常性・外部性をもつが,明確な非日常性・外部性をもつのはむしろ,儀礼で道化と対をなす神々,英雄,王などの権威者である。固定された権威の源泉は日常性と明確に区別された非日常性にある。道化は,権威の源泉である非日常性の〈負の部分〉を肩代りしてくれる点で,権威者に欠くことのできない伴侶となるが,道化の本領は,むしろその明確な非日常性の区別をも無にしてしまう無節操な動きにある。ホピの儀礼に見られるように,道化は儀礼の非日常的な厳粛さをこわし,カチナが神々というより自分たちと同じ仮面であることをためそうとする。つまり,道化は,権威の源泉としての非日常性の明確な区別・分離が不可能であることをからかいながら示し,観客である人々と神々は笑いと和解をもってそのことを認めるのである。道化はみずからが日常性と非日常性あるいは内と外との境界であることを示しながら,無節操さによってその境界が固定的なものではないことをも表す。道化の登場する儀礼は,神々や王が聖なる中心として君臨することを見せながらも,その基盤となる非日常性が日常的世界から完全に分離しえないことをも示し,神々や王が通常の固定的権威以外にダイナミックな〈無根拠の力〉をももつことを示そうとするのである。そのとき,神々や王はいくらか道化に近づいている。
→カーニバル
執筆者:小田 亮
中世からルネサンスにかけて,フランスでは〈愚者の祭り〉(教会の最下位の僧侶が司教に祭りあげられミサのパロディを行った)のあとを受けた〈愚者劇〉,ドイツでは謝肉祭劇,イギリスではモリス・ダンスや剣踊や道徳劇(主人公を誘惑する〈悪徳〉が道化役であった)などが盛んで,演劇的道化は素朴ながらすでに活躍していた。さらに16世紀イタリアに生まれたコメディア・デラルテの人気は国外にまで広まりつつあった。道化が〈ノモス〉(文化的制度・秩序)に対して〈フュシス〉(自然的生命力)を代弁する存在だとすれば,中世末期における道化の成長は西洋文化の転換期と無関係ではないだろう。
こうした盛りあがりの頂点に現れて,道化を本格的演劇の中に誘いこみ,一挙に円熟させたのがシェークスピアであった。妖精の女王との快楽を味わう職人ボトムBottom(《夏の夜の夢》),好色で大食でほら吹きで〈フュシス〉そのものの象徴のような太鼓腹をしたフォールスタッフ(《ヘンリー4世》《ウィンザーの陽気な女房たち》),ワイズ・フール(賢い愚者)という逆説を体現するタッチストーンTouchstone(《お気に召すまま》)やフェステFeste(《十二夜》),そして悲劇的国王につきそう名無しの道化(《リア王》)。ハムレットにいたっては,悲劇の主人公なのに道化ぶりを演じる。シェークスピアにとってこの世は〈巨大な道化芝居の舞台〉(《リア王》)だったのである。
偉大な人文学者エラスムスにとっても,道化的世界観は親しいものだった。彼の《痴愚神礼讃》では,〈痴愚〉の化身たる女神が祭りの喧騒の中で女道化の一人芝居よろしく長広舌をふるって,この世をあまねく支配している自分の力を自慢している。しかし作者は単にこの形式によって世の権力者たちを風刺しているだけではなく,人間そのものの愚かしさを哀れみ,さらには〈聖なる愚者〉(英語のsilly(愚かな)は語源的には〈祝福された〉を意味する)への礼賛へと転じていく。〈道化〉の概念のみごとな逆転と深化がここにある。
小説の分野では,2人の巨匠が打ちたてた道化文学の記念碑がある。まず,ラブレーの《ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語》は,中世のカーニバル的民衆文化の猥雑さと豊饒さを余すところなく表現した作品である。権力を嘲笑した道化的哲学者ディオゲネスに自分を擬したラブレーは,道化の杖をペンに持ちかえて,世界を哄笑のうちに活性化する。他方,セルバンテスの《ドン・キホーテ》は,ガルガンチュアやフォールスタッフとは似ても似つかぬ,やせて,不眠症で,理想主義的な〈憂い顔の騎士〉ドン・キホーテを登場させる。高貴な〈精神の道化〉と,彼に召使として仕える猥雑な〈肉体の道化〉サンチョ・パンサ,この2人とともにルネサンスの〈道化文学〉の黄金時代は終わる。
イギリスではピューリタン革命,大陸では三十年戦争という時代においては,グリンメルスハウゼンの《阿呆物語》(1668)という収穫を別とすれば,道化の出番はなかった。ルイ14世治下,コメディア・デラルテの強い影響を受けたモリエールがスカパンなどの道化をつくった。18世紀のイタリアでは,ゴルドーニとC.ゴッツィがコメディア・デラルテの〈近代化〉を試みたが,ロココ趣味のフランスではピエロ役者ジルGillesが人気を呼んだ。ワトーをはじめとする画家たちが競って描いたその感傷的な肖像を見ると,道化がすっかり活力を失ったように思える。イギリスでは,19世紀初頭の名道化ジョーイ・グリマルディが際だっている。とんちにすぐれ,アクロバット,踊り,歌に天才を発揮して,ロンドンの民衆の英雄と呼ばれた彼によって〈クラウン〉という英語が定着したといわれる。ルイス・キャロルやエドワード・リアのノンセンス文学は,ビクトリア朝における道化の,身をやつした自己表現ともいえる。
19世紀後半のパリの名物は,フュナンビュール座の道化J.G.ドビュローだった(映画《天井桟敷の人々》でJ.L. バローが演じた)。白塗り白衣装のこの〈月に憑(つ)かれたピエロ〉の姿の中に,当時の詩人,画家,作曲家たちはブルジョア社会において疎外された芸術家の自画像を読みとった。しかし,A.ジャリの《ユビュ王》(1896)が青ざめたピエロとは逆の,荒々しいパンチ(棍棒で女房ジュディを殴りつける)風の道化を提示したのを前触れとして,20世紀初頭には,コメディア・デラルテの道化たちがにぎやかに復活した。すなわち,メイエルホリドの演劇,ストラビンスキーとロシア・バレエ団(バレエ・リュッス),ピカソやルオーの絵画などである。
第1次大戦後に現れた新しい道化としては,チャップリンやキートンなど無声映画の喜劇俳優をあげなければならない。道化の古来の武器の一つであった身体言語が,新しいメディアによってめざましくよみがえったのである。第2次大戦後,S.ベケットが《ゴドーを待ちながら》(1953)において,浮浪者風な2人組の道化が空しく待ち人を待ちつづけるという悲劇的道化芝居をつくった。現代人の肖像としてのこの〈マイナスの道化〉は世界的に大きな衝撃を与え,道化の歴史を新たに画した。そのほか特筆すべき作品には,トーマス・マンの《詐欺師フェーリクス・クルルの告白》(1954)などの小説,ゴダールの《気狂いピエロ》(1965),フェリーニの《道化師》(1970)などの映画がある。
西洋の道化の制服のように思われているのは,まだらの衣装,ロバの耳と鈴のついた頭巾,それに笏杖(しやくじよう)などであるが,そういったイメージが定着したのは中世末期,ルネサンスにおいてである。歴史的に見れば,それ以前にも以後にも,豊かな多様性が認められる。一貫する特徴は,社会的常識から大きくはみだすような異形性といえるが,細部の象徴的意味を特定するのは必ずしも容易ではない。
耳つき頭巾はすでに,貴族が道化を抱える習慣のあったローマ時代の彫刻にも見られる。耳はロバを表し,ロバは〈愚〉を表す。だが,逆説的に〈賢〉をも表しうることは,〈バラムのロバ〉(旧約聖書《民数記》22章)や,キリストがロバに乗ってエルサレムに入った話などにもうかがえる。中世農耕祭儀において殺害され復活する〈クリスマス・フール〉を,古代ローマの農神祭で儀礼的に殺されるロバの耳をした神と結びつけうるとすれば,道化=ロバの豊饒神的・犠牲的性格が暗示されよう。鈴は狂気,自由,警告などを象徴する。帽子にはとさかや羽根がついているが,鳥もまた狂気と自由の象徴である。
まだら服は道化のちぐはぐさと非順応性を示す。世界の根源的無秩序性を,体制内の秩序に甘んじている者たちに思い出させるという役割にふさわしい。まだらな羽毛で作られた服を着た道化の絵も残っている。また,道化が身につけていた子牛の皮,キツネの尾などは,人間存在の動物的下半身の象徴とも,あるいは太古の供犠の慣習のなごりともとれる。笏杖についても,豊饒祭儀における男根の変形,道化の主人たる国王の笏杖のパロディなど,多義的解釈が可能であろう。
16世紀イタリアに興ったコメディア・デラルテのアルレッキーノにおいて,以上の諸特徴は変容され集約される。ひし形の図柄のまだら服,棍棒,剃った頭に羽根や動物の尾をつけた帽子,ひげの生えた黒い仮面をつけたこの人気者は,シェークスピアの宮廷道化とは趣を異にするが,道化の一典型である。しかし彼の仲間や末裔も忘れてはならない。だぶだぶの服,円錐形の帽子,かぎ鼻の黒い仮面,棍棒を特徴とするプルチネラPulcinella(イギリスではパンチと名が変わる)。おそらくペドロリーノの後身である,ゆるい白い服に白塗りのピエロ(19世紀パリでドビュローが有名にした〈悲しき道化〉)。逆にイギリスでは,19世紀初頭クリスマス・パントマイム(別名ハーレクイネードharlequinade)で活躍した名クラウン,グリマルディのグロテスクな衣装と化粧。そして彼の影響を受けたおなじみの赤いつけ鼻のサーカス・クラウン。
20世紀最大の道化チャップリンの,きつい上着にだぶだぶズボン,どた靴に小さい帽子,それにステッキという浮浪者スタイルも,長い伝統を踏まえていることがわかる。キートンの笑わぬ顔は一種の仮面であり,マルクス兄弟はコメディア・デラルテの現代版ともいうべき諸特徴をそなえている。他方,ベケットの《ゴドーを待ちながら》には,神話的背景とともに伝統的小道具をも奪われて,廃墟に投げ出された現代の道化の姿がある。
執筆者:高橋 康也
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見る人を笑わせるようなおもしろく、おどけたことばおよび行動。そうしたおどけた言行をなす人間をいうこともあるし、さらにそうした言行を専門的職業とする道化師、道化役者をいうことも多い。歌舞伎(かぶき)の道化(道外)方(どうけがた)をさすこともある。「道化」ということばの起源自体は「童戯」「道戯」であろうという説、オドケやタワケからの転訛(てんか)であろうという説、それから戦国武将斎藤道三(どうさん)の家臣でおかしな風態をもって人の笑いを誘った道家某の名に由来するという説など諸説あって確かではない。ちなみに中国語では「滑稽(ホワチ)」がこれに相当する。英語では「フール」fool、フランス語では「フー」fou、ドイツ語では「ナル」Narrがこれにあたるが、愚行をなす馬鹿(ばか)者をいう一般的用法と滑稽(こっけい)な言行を専門的職業とする人をさす狭義の用法とが未分化であることはみな同じで、「フール」を愚か者ととるか道化役者ととるかで困る場合が多い。また宮廷や貴族のお抱え道化師「ジェスター」jesterや、サーカス、ボードビル、映画のスラプスティック・コメディに出てくる「クラウン」clownといった同系列の語とも用法上の区別はきわめてあいまいで、それらを総称する語として「フール」が使われたりもする。
1人の個人を考えてみても、労働と合理性のみでは生きていけず、さまざまなジョークや愚行で息抜きを行いながら生命体としての平衡を保つように、一共同体も、労働と合理を核とする日常(ケ)に集合的な愚行を核とする非日常(ハレ)を一定期間対置させることによって平衡を保つが、そうした生命維持に必須(ひっす)の息抜き、ないし安全弁としての機能が徐々に制度化してくると、空間としての祝祭、そして役割としての道化が成立してくる。世界中の各種民俗的豊穣(ほうじょう)儀礼、中世教会の「愚者の饗宴(きょうえん)」やその末裔(まつえい)たるカーニバルといった祝祭の空間に道化が付き物なのも、そうした本質的なつながりのゆえである。
祝祭が男女や階級といった日常的秩序の逆転を目ざし、いわゆる「逆(さか)さまの世界」の現出を目ざすように、役割としての道化も、たとえば両性具有的であるなど、徹底的な両義性を特徴とする。モトリー(だんだら服)とよばれるそのちぐはぐな衣装に道化の両義性は象徴される。日常世界の二項対立的な範疇(はんちゅう)の境界域に出没して、世界がどちらか一元的な価値観へと硬化するときには、抑圧された側の価値観の側から、そうした世界を嗤(わら)い攻撃する。社会への風刺者という形をとるわけだが、社会道徳は概して、人間が肉体をもつゆえの猥雑(わいざつ)さ(性、飲食、排泄(はいせつ))を抑圧する傾きがあるため、その批判者たる道化は逆に、人間の肉体性を誇張する。人間を精神性や合理性とひとまず切り離してただの肉体、風の通り抜けていく袋とみるような肉体観を道化は体現している。ちなみに「フール」のラテン語源フォリスfollisは、「袋」ないし「鞴(ふいご)」を意味するのである。
あるいは、道化はもっと深い次元で人間生命力の抑圧された無意識の部分を表現しているということもできる。すなわちフロイト心理学でいうエスEs(本能的欲動。イドidともいう)ないし快楽原則を、ユング心理学でいうアーキタイプArchetype(元型)を表現する。文化が人間の肉体的猥雑さを抑圧し精神に優位を与えようとするとき、道化は抑圧された肉体性を担って表れ、文化の硬直化に対して、「補償」(ユング)として機能するのである。
こうして道化は、日常的世界が抑圧するさまざまの要素(性、暴力、破壊、蕩尽(とうじん)、放恣(ほうし)、非合理)を表現し、そういう負(ふ)の役割を担うことで文化に平衡を保たせてきた。それは、硬直しつつある共同体が自らを活性化するために要請する、笑いを方法とした安全弁なのだということができるし、それで社会が賦活(ふかつ)するとすれば、道化には古代の民俗的豊穣儀礼にまで淵源(えんげん)するとおぼしい活性化機能があるのだということになる。さらに安全弁としての機能を果たした道化を追放することによって、社会がふたたび日常的世界に戻っていくのだとすれば、道化にはスケープゴートとしての役割があることにもなる。道化はその過剰な性的表現を介して世界に豊穣をもたらし、社会に平衡を保たせ、文化の更新に力を貸しながら、その役割を果たせばふたたび抑圧されねばならない。
古代ローマでは農耕神サトゥルヌスを記念してサトゥルナリア祭が毎年12月に催された。そこでは偽王(モック・キングmock king)が選ばれ、1年の終わりに日常的規範からの逸脱と逆転をほしいままにする一時的支配権をゆだねられ、そして祭りの終わりには共同体の穢(けが)れを担って殺害されるスケープゴートとしての役割を果たした。中世・近世の道化師がロード・オブ・ミスルールlord of misruleすなわち「無礼講の王」とよばれて偽王としてふるまったのも、中世教会で日常的宗教慣習をことごとく逆転させて行われた僧侶(そうりょ)たちの「愚者の饗宴」で「阿呆(あほう)の司教」が果たした役割も、みなこの古代ローマの農耕儀礼における道化の機能に淵源する。
しかし、中世には寛大に扱われていた「愚者の饗宴」は近代に入ると徐々に抑圧を被り、一種のギルドとしての愚行結社へと世俗化していったし、負の力を担う批判者としての道化は、16~17世紀イタリアの即興仮面劇コメディア・デラルテ、シェークスピアを筆頭とする17世紀初めのエリザベス朝演劇、ローマのミモス劇の流れをくむパントマイム、17世紀ドイツ民衆演劇であるハンスウルスト劇といった演劇のなかに、そのはけ口をみいだしていった。日本でも歌舞伎や狂言において「猿若(さるわか)」をはじめ多様な道化方が活躍し、滑稽なしぐさ、奔放な言語遊戯を介して道化役者たちは痛烈な社会風刺を行った。一方、近代絶対主義王権はその宮廷に宮廷道化(コート・ジェスター)を抱え、自己に向けられるはずの風刺をあらかじめ道化の毒舌に制度化しておくという方法をとった。
19世紀になり労働と合理とが一方的に崇拝される時代、舞台道化たちはサーカスやパントマイムのクラウンやピエロへと、宮廷道化はブルジョア文化に寄食する文化人(ダンディ)へと退化した。ボードレール、ピカソといった芸術家たちが、自らの反社会性を「悲しきクラウン」の形象に託した。また、道化は演劇の分野のみならず、16世紀『愚神礼賛(らいさん)』のエラスムスや『ガルガンチュワ‐パンタグリュエル物語』のラブレーなどに始まる、人間の愚劣をおおらかに許容する道化文学にも結実し、それらの系譜も各時代に肉体性謳歌(おうか)の風刺の矢を放ち、それはサイレント映画のどたばたやベケットなどの不条理演劇のなかに、あるいはアンチ・ヒーローの活躍する小説のなかに華々しくよみがえっている。さらに1960年代には、近代の一元的価値観を疑問視する国際的な文化的批判運動のなかで、階級、男女などの範疇区分をやすやすと越える道化のトリックスターとしての両義性が、ありうべき知性のモデルとして大いに注目されたことは、まだ記憶に新しい。
[高山 宏]
『M・バフチーン著、川端香男里訳『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』(1973・せりか書房)』▽『山口昌男著『道化の民俗学』(1975・新潮社/1985・筑摩書房)』▽『E・ウェルズフォード著、内藤健二訳『道化』(1979・晶文社)』▽『W・ウィルフォード著、高山宏訳『道化と笏杖』(1983・晶文社)』▽『B・バブコック編、岩崎宗治・井上兼行訳『さかさまの世界』(1984・岩波書店)』▽『高橋康也著『道化の文学』(中公新書)』
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…歌舞伎踊や浄瑠璃操り,幸若舞,放下(ほうか),蜘(くも)舞などの諸芸能の間でも,それぞれ間狂言がはさまれ,物真似(ものまね)狂言,歌謡,軽業,少年の歌舞などが演じられた。なかでも一番多く演じられたものが物真似狂言であり,演者は歌舞伎の座に主に所属する狂言方,後に明暦・万治頃から道化と呼ばれた人たちである。三国(みくに)彦作,けんさい,奴作兵衛(やつこさくひようえ),坂東又九郎らは初期の道化として名高い。…
…コメディア・デラルテの中で下僕・従者として登場する代表的な道化役の一人。中世フランスの説話に現れるいたずら悪魔エルルカンHerlequin,エルカンHellequinがその語源であるといわれている。…
…古くはヲコ,ウコとも。単純にいえば,おろか,愚鈍の意味だが,人を笑わせようとするような行為や,常軌を逸した行為などをもさす,多義的な語で,日本における道化的精神をさぐるのにきわめて重要な語といえる。語源はヲカシと同根かともされるが未詳。…
…〈土くれ〉〈田舎者〉を意味する英語のclodを語源とする説が有力だが,定説とはいえない。広義の道化foolと区別して用いられる場合には,舞台や見世物の道化役をさす。その祖先は古代ギリシア・ローマの喜劇役者,16世紀から18世紀にかけてヨーロッパを席巻したイタリアのコメディア・デラルテの道化たち(〈ザンニ〉と総称され,その一人ペドロリーノがピエロに発展した),シェークスピアの道化などに求められよう。…
…アメリカではサーカス学校のほかに,サーカスの博物館,図書館,サーカス・ファンの連合組織があり,イリノイ州立大学ではサーカスの技術講座も設けられている。
【サーカスの演目】
サーカス研究家のブーイサックPaul Bouissacによれば,サーカスの基本は,アクロバット,道化(クラウン)芸,調教動物芸で構成され,さらに音楽や照明効果をともない,〈サーカス芸というものは,ハプニングの自由な連続体などではなく,綿密に計画された型どおりの所作(アクション)を一つのパターンにそって上演するものである〉という。また研究家のヒッピスリー・コックスはサーカスの演出を分類して,まず序曲についで大パレード,馬上曲芸,力男,動物芸,馬術,冒険技,休憩,檻(おり)入りの猛獣,空中ぶらんこ,馬のダンス,奇術,アクロバット,クラウンの入場,フィナーレとしている。…
…関西の方言で,道化(どうけ)たこと,あるいは道化者を意味する。また人形浄瑠璃や歌舞伎の道化役や滑稽な場面(チャリ場)をいう。…
… 俳優でなく人形が劇を演じるということは,第1に人物のタイプ(役柄)が固定し,第2に操作術により非現実的なものを現実化させうるという特色を示すことになる。その結果,人形劇にストーリーがつくようになった15世紀ころには,茶番劇で道化人形が主人公になり,ウイットと風刺のきく芝居があらわれた。17世紀になると,ヨーロッパでは人形劇にパトロンがつくようになり,道化人形が劇の重要なパートを占めるようになった。…
…擬,抵牾,牴牾などと書く。芸能では主役のまねをしたり,からかったりする道化の性格をもつ役や曲をいう。たとえば御神楽(みかぐら)の人長(にんぢよう)と才男(さいのお),能の《翁》と《三番叟》を,神ともどきの関係としてみることができるし,舞楽の《二ノ舞》は,《安摩(あま)》の答舞の形をとって《安摩》をまねて舞われるが,これは《安摩》に対するもどきである。…
…野党やマスコミの存在機能の一端も,弥次を許容する体制や弥次の文化を構成することにある。言語による笑いの仕掛人たる道化jester foolの存在形態や役割機能は,政治文化の成熟度の一目安となろう。【坂本 孝治郎】。…
※「道化」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
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