日本大百科全書(ニッポニカ) 「マイネッケ」の意味・わかりやすい解説
マイネッケ
まいねっけ
Friedrich Meinecke
(1862―1954)
ドイツの歴史家。プロイセンの小都市ザルツウェーデルに生まれる。郵便局長の父の転勤に伴い、一家はベルリンへ移る。1882年ベルリン大学に入学し、ドロイゼンの講義に感銘し、歴史学研究を志す。86年に同大学を卒業し、プロイセン国家文書館に奉職した。90年、ジーベルの委嘱で歴史学専門誌『ヒストーリッシェ・ツァイトシュリフト』の編集に従事、ジーベル亡きあと長く編集主幹としてドイツ歴史学の発達に寄与する。1901年シュトラスブルク(ストラスブール)大学近世史正教授となり、06年フライブルク大学に転じる。07年、マイネッケの名を一躍ドイツ史学界に高めた『世界市民主義と国民国家』を公刊し、かたわら新聞に時事評論を盛んに発表する。14年、第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)してまもなく母校ベルリン大学に戻る。戦時中はベートマン・ホルウェークなどの政治家と交わった。大戦がドイツの敗北をもって終わると、ワイマール共和政が成立し、彼もドイツ再建のために尽力した。この期の第二の代表作が24年の『近代史における国家理性の理念』であり、大戦の反省に裏づけられている。28年に大学を退職したが、33年にナチスが政権を掌握した前後からしだいに圧迫を受け、国立歴史委員会会長や『ヒストーリッシェ・ツァイトシュリフト』編集者を辞めることを強いられた。この期の第三の代表作が近代歴史主義を研究した『歴史主義の成立』(1936)である。45年にドイツが降伏してから占領下のベルリン大学の教壇に立ったが、48年にベルリン自由大学が創立されると、その初代総長に推された。
彼は、ランケの正統派史学を継承した現代ドイツ最大の歴史家であって、ビスマルク第二帝国の建設と終末、ヒトラー第三帝国の崩壊という歴史的変動を身をもって体験し、これを自己の研究に刻印づけた。代表作に現れた新しい理念史的政治史学は、マイネッケの名を不朽ならしめている。
[西村貞二]
『西村貞二著『現代ドイツの歴史学』(1968・未来社)』▽『西村貞二著『マイネッケ』(1981・清水書院)』▽『林健太郎著『ドイツ史論集』(1976・中央公論社)』▽『岸田達也著『ドイツ史学思想史研究』(1976・ミネルヴァ書房)』