マカパガル
まかぱがる
Diosdado Macapagal
(1910―1997)
フィリピンの政治家。ルソン島中部パンパンガ州生まれ。1935年セント・トマス大学卒業。翌1936年弁護士。1941年母校で法学部教授。1946~1948年外務省勤務を経て1949年下院議員として政界入り。1957年リベラル党から副大統領に当選したが、ナショナリスタ党のガルシア大統領とは不和であった。1961年ガルシアを破り大統領に就任、為替(かわせ)自由化、農地改革法の制定など経済危機克服に努める。1962年サバ(ボルネオ島)領有を宣言し、マレーシア連邦構想に挑戦、1963年にはスカルノ(インドネシア)、ラーマン(マレーシア)とともに三国協議体たる「マフィリンド」構想に合意。1965年再選を目ざしたがナショナリスタ党のマルコスに敗退。1971年制憲会議議長。長女のグロリア・マカパガル・アロヨも同国上院議員などを経て、2001年にフィリピン大統領となった(~2010)。
[黒柳米司]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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マカパガル
Diosdado Macapagal
生没年:1910-97
フィリピンの政治家。ルソン島中南部のパンパンガ州ルバオの貧農の生れ。苦学してサント・トマス大学法学部を卒業,博士号を取得し,弁護士業に従事した。第2次大戦後外務省に入り外交官の道を歩んだが,1949年リベラル党下院議員となり,政治家に転身した。61年同党の大統領候補としてナショナリスタ党のガルシア大統領を破って当選し,独立後のフィリピン共和国第5代大統領として65年まで務めた。その間,経済自由化政策を打ち出して為替統制を廃止し,平価切下げを断行した。また農地改革法を制定した。65年の大統領選でマルコスに敗れたが,その後は在野政治家としてマルコスの強権体制に終始批判的で,民主政治の回復を唱えた。
執筆者:滝川 勉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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マカパガル
Macapagal, Diosdado
[生]1910.9.28. ルバオ
[没]1997.4.21. マニラ
フィリピンの政治家。セント・トマス大学卒業後,1936年弁護士,41年大学教授などを経て 49年下院議員。 51年国連代表,対日講和会議代表などをつとめたのち,57年に国民党の C. P.ガルシア大統領のもとで自由党から副大統領に当選。 61年の選挙では進歩党と合同してガルシアに反対,汚職追放を掲げて大統領に当選。改革案を遂行したが,国民党が多数を占める議会の反対であまり効果があがらず,65年の大統領選挙で F.マルコスに敗れ,71年6月制憲会議議長となった。マルコス政権当時,戒厳令の違法性を唱えた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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マカパガル
フィリピンの政治家。第2次大戦後下院議員,対日講和会議代表,国連代表。1957年―1961年リベラリスタ党党首。1962年―1966年大統領として反共親米政策を唱え,東南アジア条約機構強化に努めた。
→関連項目ガルシア
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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