マルコス(読み)まるこす(英語表記)Ferdinand E. Marcos

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マルコス」の意味・わかりやすい解説

マルコス
Marcos, Jr., Ferdinand

[生]1957.9.13. マニラ
フェルディナンドマルコス・ジュニア。フィリピンの政治家。大統領在任 2022~ )。フルネーム Ferdinand Romualdez Marcos Jr.。ボンボン Bongbongとも通称される。1972~81年にフィリピン全土に戒厳令をしき,独裁者と呼ばれたフェルディナンド・マルコスと母イメルダ・マルコスの長男で,長らく政治家を務め,ロドリゴ・ドゥテルテ大統領の任期満了に伴う 2022年5月9日の大統領選挙に出馬し,当選した。
中等教育をイギリスのベネディクト派の寄宿学校で受け,1975~78年にオックスフォード大学在学。1979年にアメリカ合衆国のペンシルバニア大学ウォートン経営大学院に入学し,1981年経営管理学課程を修了。マルコス家の地盤であるルソン島イロコスノルテ州で 1981~83年に副知事を務め,1983~86年には知事についた。1986年2月,フィリピンでピープルパワー革命(エドゥサ革命)が起こり,戒厳令下における人権侵害や不正蓄財に問われた両親とともにアメリカへの亡命。1989年に父が死去し,1991年に帰国。1992年にイロコスノルテ州選出の下院議員になり,1998~2007年イロコスノルテ州知事。2007~10年に再び同州選出の下院議員となり,2010~16年上院議員。2016年の副大統領選挙に立候補したものの,レニー・ロブレドに敗れた。2022年5月の大統領選挙では,ドゥテルテの娘で副大統領候補のサラ・ドゥテルテと組んで選挙戦を優位に展開し,対抗するロブレド副大統領らを大差で退けて当選した。6月30日大統領就任

マルコス
Marcos, Ferdinand Edralin

[生]1917.9.11. バタック
[没]1989.9.28. ホノルル
フィリピンの政治家。フィリピン大学を卒業して弁護士になり,第2次世界大戦中はアメリカ軍の情報将校としてルソン島の反日ゲリラに参加。 1946年独立フィリピン初代大統領マヌエル・ロハスの特別補佐官,1949年下院議員。 1959年上院議員。 1964年総裁を務めていた与党自由党を脱党して,野党の国民党に入党した。 1963~65年上院議長。 1965年の大統領選挙に国民党から立候補して当選し,1966年1月就任,1969年の大統領選挙で再選された。 1972年9月~1981年1月共産ゲリラの活動封じ込めと「新しい社会」建設を理由に戒厳令を施行,国内に独裁体制を築き改革に乗り出した。 1975~76年中国,ソビエト連邦国交を樹立し,アメリカ合衆国一辺倒の政策からの離脱をはかるとともに,東南アジア諸国連合 ASEAN諸国をはじめ第三世界諸国との協力関係確立に積極的に動いた。 1981年6月任期6年の大統領に選出。 1983年8月に起こった反対派リーダーのベニグノ・S.アキノ暗殺 (→アキノ暗殺事件 ) に対する新たな抵抗運動,社会・経済不安,マルコス自身の健康悪化などを背景に 1986年2月繰り上げ大統領選挙を実施民主国民連合のコラソン・C.アキノと対決し勝利を収めたが,選挙直後に軍改革派が退陣要求。2月 25日大統領就任式を行なったものの同日辞任,亡命した。

マルコス
Marcos, Imelda

[生]1931.7. レイテ,タクロバン
フィリピンの政治家,F.マルコス元大統領夫人。ビサヤ地方きっての名門ロムアルデス家の出身で,父が法学部長をしていたセントポール大学教育学部卒業。 1953年マニラで開かれた第1回国際博覧会の女王に選出され,奨学金を獲得,フィリピン女子大学音楽学部で声楽を学んだ。 54年4月マルコス下院議員と結婚,夫の大統領就任後は政治舞台でも活躍。外交,内政両面において積極的に夫を助けてきた。 75年 11月大マニラ市長に就任。 79年より居住環境相。 86年2月大統領選挙後の政変により,夫が大統領を辞任し,ともに亡命した。 91年帰国し,92年大統領選に出馬したが落選。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「マルコス」の意味・わかりやすい解説

マルコス
まるこす
Ferdinand E. Marcos
(1917―1989)

フィリピンの政治家。ルソン島北部のイロコス・ノルテ(北イロコス)州生まれ。1939年フィリピン大学法学部卒業、弁護士試験に首席合格。1949年リベラル党から下院議員に当選。1959年上院議員を経て1963年上院議長。1964年リベラル党のマカパガル大統領との対立からナショナリスタ党に移籍、翌1965年大統領に当選。経済四か年計画の着手や対米自立化推進などの成果を背景に、1969年第二次世界大戦後初の再選大統領となる。1972年9月21日新人民軍の活動激化を理由に戒厳令を布告、上院議員ベニグノ・アキノら政敵多数を逮捕(ベニグノ・アキノは1980年釈放、渡米)。「新社会」建設を唱えたが、1975年夫人イメルダを首都圏知事に任命するなど権力の私物化も進行した。1981年1月戒厳令解除。同年6月大統領3選。1983年8月マニラ空港(現ニノイ・アキノ空港)でのアキノ暗殺事件との関連が疑われ、南部イスラム反乱激化や経済悪化にも直面、民主化を求めるアメリカとの関係も悪化した。1986年2月繰り上げ大統領選を実施、不正に勝利を演出したが、エンリレ国防相ら軍部の反抗に大衆が呼応し、2月25日ハワイに亡命。その結果、ベニグノ・アキノ元上院議員未亡人コラソン・アキノの大統領就任に道を開いた。

[黒柳米司]

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