知恵蔵 「ムバラク」の解説
ムバラク
ムバラクが注目を浴びたのは、翌73年の第4次中東戦争(十月戦争)である。同じく軍出身サダト大統領の下、イスラエルへの奇襲攻撃を成功させ、一躍国民的英雄となった。その後、イスラエルの猛反撃を受け、エジプトは劣勢のまま停戦合意を受け入れるが、緒戦でアラブ共通の敵イスラエルの不敗神話を打ち砕いたことは、国家の威信を大いに高めることとなった。しかしこの戦争の後、サダト大統領はそれまでの社会主義陣営との協調から、資本主義陣営との協調に舵(かじ)を切ることになる。50年代旧ソ連に留学した経験を持つムバラクも、サダトの経済開放政策・欧米追随政策に従い、75年には事実上の後継者として副大統領に任命された。イスラエルと平和条約(79年)を結んだサダト大統領が、それを不満とするイスラム過激派によって81年に暗殺されると、ムバラクは大統領に就任。同時にテロ対策を名目とした非常事態令を発令し、政治活動の自由を制限した。この非常事態令は欧米の批判を受けながらも、2011年1月現在まで継続されている。
これまでムバラク政権は、周辺アラブ、イスラエル、欧米諸国の国際的緊張の上で、微妙なバランスを保ちながら存続してきた。外交では1989年にアラブ連盟に復帰しながらも、欧米諸国に強く同調。91年の湾岸戦争の際には、反イラクの姿勢を明らかにし、多国籍軍にも参加している。中東和平交渉の重要なパイプ役として、国際社会とりわけアメリカの信頼は厚い。
一方、内政では軍と警察による強権支配を続け、「イスラム団」などのイスラム過激派だけでなく、穏健なイスラム原理主義組織「ムスリム同胞団」も国政から排除した。これはアメリカの意向と重なるものであり、約30年間にわたる長期独裁が国際社会から黙認されている理由の一つと指摘される。過激な原理主義の台頭を封じ込め、長年他国と戦火を交えず、アラブの盟主としての地位を築き上げた功績を支持する国民は少なくない。しかし、こうした親米・親イスラエル路線、また格差是正に成果を挙げられないムバラク政権に対する国民の不信は、90年代以降の人権抑圧・監視強化に伴って、大きく膨れ上がっている。とりわけ失業率が高い若年層には、強い不満が鬱積(うっせき)していると見られる。
(大迫秀樹 フリー編集者 / 2011年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報