メタクサス
Ioánnes Metaxás
生没年:1871-1941
ギリシアの将軍,政治家。プロイセン軍事アカデミーに学ぶ。ギリシア・トルコ戦争(1897),バルカン戦争(1912-13)で功をあげ1916年将軍となる。第1次大戦ではギリシアの中立を守ることを主張し,ベニゼーロスの提唱するトルコ領西アナトリア攻略(1921-22)には強く反対した。政治的には王党派で,王政廃止(1924)とともにいったん亡命したが,のち共和制政府内の閣僚も務める。その後も王党派の党主として政府に反対し続け,ゲオルギオス2世の復位(1935)にともない首相に任命され,36年8月には国王の認可を得て独裁政を施行するにいたった。彼の全体主義的な政策の下に,一方では財政的・軍事的再建が遂行され,ギリシアと近隣諸国との友好関係も小康状態が保たれたが,他方,この時期にドイツのギリシア経済への浸透が進んだ。39年イタリアのギリシア軍事侵略にはよく応戦しえたが,メタクサスの死後ドイツがイタリアを支援するに及んで,41年4月ギリシアはドイツ占領下に落ちた。
執筆者:真下 とも子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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メタクサス
Metaxas, Ioannis
[生]1871.4.12. イサキ島
[没]1941.1.29. アテネ
ギリシアの軍人,政治家。 1890年士官学校を卒業し,97年ギリシア=トルコ戦争に参加。その後ドイツへ留学し,1903年帰国。バルカン戦争を経て 13~15年参謀長。第1次世界大戦では中立を主張したが,連合国の圧力でコンスタンチヌス国王が退位し,17年6月ギリシアはドイツに宣戦したため 20年に軍を辞する。メタクサスは国王復位後の 21年帰国。 21~22年ギリシア=トルコ戦争でギリシアの敗北後,ベニゼロスの失脚,王の交代など,王党派と共和派の抗争が繰返され,35年に立憲君主制が復活し,36年4月メタクサスは首相に就任,戒厳令を敷いて議会政治の停止,言論の統制,共和派などの弾圧を断行し,独裁政治を行なった。 40年 10月,イタリアのギリシア侵入から連合国側についたが,戦いの途中死亡。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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メタクサス
Ioannis Metaksas
1871~1941
ギリシアの将校,独裁者。アテネとプロイセンの陸軍士官学校で学んだ。1936年国王コンスタンディノス2世の支持で首相(在任1936~41)となり,独裁政権を発足させた。共産主義の脅威を口実に憲法の主要条項を廃止し,古代ギリシアとビザンツに続く「第三ギリシア文明」を標榜するファシズム体制をしいた。一方イギリスとの関係を重視し,40年イタリア軍の最後通牒を拒否してギリシア軍の士気を高めた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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世界大百科事典(旧版)内のメタクサスの言及
【ギリシア】より
… 世界恐慌ののち社会不安が高まる一方であった35年,コンディリス将軍は政権をとるとすぐ国民投票により王政を復活し,ゲオルギオス2世が復位した。ついで36年首相となった[メタクサス]将軍は王政反対の社会騒擾(そうじよう)を見てとるや戒厳令を発し,ファシスト的独裁制の下に国会停止,共和派の弾圧,言論の統制などを行った。折から第2次大戦が勃発。…
※「メタクサス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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