ユリウス[2世]
Julius Ⅱ
生没年:1443-1513
外交および学芸保護で名を成した教皇。在位1503-13年。前名ジュリアノ・デラ・ロベレGiuliano della Rovere。イタリアのサボナ東郊のアルビッソラに生まれ,伯父の教皇シクストゥス4世から多くの司教領を与えられ,1471年枢機卿に昇進。教皇インノケンティウス8世(在位1484-92)の即位と政策に大きな影響を及ぼしたが,次のアレクサンデル6世の在位中(1492-1503)はフランスに亡命。1503年教皇に選ばれた。巧みな外交でフランスと結んだり,反仏諸勢力を糾合したりしつつ,教皇権力を大いに強化し,その保護を受けて活躍したルネサンス盛期の巨匠ブラマンテ,ラファエロ,ミケランジェロらから期待された。しかし宗教者であるよりも世俗的国王であったため,教皇庁の世俗化を押し広め,教会刷新を意図した第5ラテラノ公会議(1512-17)も功を奏せず,着手したサン・ピエトロ大聖堂の建設は,後年ルターの反発(九十五ヵ条提題)を誘発する一因となった。
執筆者:青山 玄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ユリウス2世
ユリウスにせい
Julius II
[生]1443
[没]1513.2.21. ローマ
教皇 (在位 1503~13) 。フランシスコ会士。伯父シクスツス4世によって 1471年枢機卿。本名 Giuliano della Rovere。教皇として教皇領再建に尽力。外交政策を駆使してベネチアに対抗し,イタリアへのフランスの野心をくじき,フランス勢にくみした枢機卿らによる離教の危機は,1512年第5回ラテラノ公会議を開催して収拾した。インド,アフリカに宣教師を派遣。芸術の保護者であり,ミケランジェロ,ラファエロらを登用。新しい聖ペテロ大聖堂の礎石を置いた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ユリウス2世(ユリウスにせい)
Julius Ⅱ (本名 Giuliano della Rovere)
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
世界大百科事典(旧版)内のユリウス2世の言及
【ラテラノ公会議】より
…(4)第4回(1215) インノケンティウス3世Innocentius IIIによって召集され,異端鎮圧や第4回十字軍をはじめ,神学,典礼,教会法など多くの議題が論議された。(5)第5回(1512‐17) ユリウス2世Julius IIが反教皇的なピサ公会議(1511)に対抗するために開催したが,緊急に必要とされる改革はほとんど手をつけられずに終わった。【今野 国雄】。…
【キリスト教】より
…ニコラウスをふくめて10代の教皇を〈ルネサンス教皇〉と呼ぶ。シクストゥス4世(在位1471‐84)はバチカン図書館を改造し,システィナ礼拝堂を建て,あるいはユリウス2世(在位1503‐13)は聖ペテロ大聖堂を建てたが,これらのことは教皇の霊的権威を少しも回復するものではなかった。 中世におけるキリスト教のゲルマン化は,上述のように教皇権と皇帝権との対立のなかで自由と抵抗権の確保をめぐって起こったが,これをさらに内側からみて,修道院の成立とそこから生み出された敬虔と学問について述べねばならない。…
【パトロン】より
…ランブール兄弟に《いとも豪華なる時禱書》を描かせたベリー公ジャン,多くの巨匠や詩人たちを保護したメディチ家の当主たちをはじめとして,ルネサンス期の君主や商人の多くが,美術史に芸術保護者としての名を残している。ブラマンテ,ミケランジェロ,ラファエロを招き,ローマにおけるルネサンスを開花させた教皇ユリウス2世,デューラーを招いた皇帝マクシミリアン1世,晩年のレオナルド・ダ・ビンチを厚遇したフランス王フランソア1世などもあげられる。17世紀には,中央集権国家が宮廷とアカデミーを軸として,いわば国家政策として芸術の育成,保護に努める。…
【ラテラノ公会議】より
…(4)第4回(1215) インノケンティウス3世Innocentius IIIによって召集され,異端鎮圧や第4回十字軍をはじめ,神学,典礼,教会法など多くの議題が論議された。(5)第5回(1512‐17) ユリウス2世Julius IIが反教皇的なピサ公会議(1511)に対抗するために開催したが,緊急に必要とされる改革はほとんど手をつけられずに終わった。【今野 国雄】。…
※「ユリウス2世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」