デジタル大辞泉
「ラグーザ」の意味・読み・例文・類語
ラグーザ(Ragusa)
イタリア南部、シチリア島、シチリア自治州の都市。同島南部のイブレイ山地の麓、標高約500メートルに位置する。ラグーザイブラ(旧市街)、ラグーザスペリオーレ(新市街)の2地区に分かれる。旧市街は古代ギリシャの植民都市に起源し、新市街は谷を挟んだ向かいの斜面の、より標高が高い場所に広がる。17世紀の大地震により大きな被害を受けたが、イブラ地区のサンジョルジョ大聖堂、ブルガトリオ教会、スペリオーレ地区のサンジョバンニ大聖堂をはじめ、その後の復興により再建されたシチリア‐バロック様式の建物が多い。同島南東部の八つの町が2002年に「バル‐ディ‐ノートの後期バロック様式の町々」の名称で世界遺産(文化遺産)に登録された。
ラグーザ(Vincenzo Ragusa)
[1841~1927]イタリアの彫刻家。1876年(明治9)来日し、工部美術学校の教師として日本に洋風彫刻の技術を伝えた。
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ラグーザ
- ( Vincenzo Ragusa ビンチェンツォ━ ) イタリアの彫刻家。明治九年(一八七六)来日、工部美術学校で教え、多くの弟子を育てた。同一五年、妻清原玉をともなって帰国、「ガリバルディ騎馬像」などを制作した。(一八四一‐一九二七)
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ラグーザ(Vincenzo Ragusa)
らぐーざ
Vincenzo Ragusa
(1841―1927)
イタリアの彫刻家。シチリア島パレルモ近郊に生まれる。1876年(明治9)工部美術学校創設の際、教授として画家フォンタネージ、建築家カペレッティGiovanni Vincenzo Cappelletti(1843―1887)と来日。大熊氏広(おおくまうじひろ)(1856―1934)、藤田文蔵(ふじたぶんぞう)(1861―1934)らを育てて、1882年の同校彫刻科廃止まで滞在した。典雅で写実的な作風で日本の彫刻界に大きな刺激を与え、洋風彫刻勃興(ぼっこう)の端緒をなした。この間、1880年に清原玉(きよはらたま)(1861―1939)と結婚、彼女を伴って帰国し、パレルモで美術工芸学校を創設、同地に没した。代表作に夫人をモデルとした『清原玉像』『日本の婦人』のほか『日本の俳優』(いずれも東京芸術大学蔵)や、帰国後の『ガリバルディ騎馬銅像』などがある。
ラグーザ玉の通称で知られる夫人は、渡伊後の1889年、教会で結婚式をあげてエレオノーラ・ラグーザと改名、本格的に油彩画を習得して各地で受賞し、日本の女流洋画家第一号と称された。ラグーザの死後、1933年(昭和8)に帰国して1939年に東京で没。
[佐藤昭夫 2018年8月21日]
『木村毅編『ラグーザお玉自叙伝』(1980・恒文社)』▽『加地悦子著『ラグーザ玉 女流洋画家第一号の生涯』(1984・日本放送出版協会)』
ラグーザ(イタリア)
らぐーざ
Ragusa
イタリア、シチリア島の南部、ラグーザ県の県都。人口6万8346(2001国勢調査速報値)。イブレイ山地の南麓(なんろく)、イルミーニオ川右岸の標高497メートルに位置する。市は旧市街のラグーザ・イブラと1693年の地震後に形成された新市街ラグーザ・スペリオーレの二つの核から構成される。農産物の取引や瀝青(れきせい)の採掘が行われてきたが、1953年に付近で油田が発見されたことによって精油業も発達した。75キロメートルの石油パイプラインでイオニア海岸の町アウグスタと結ばれている。
[堺 憲一]
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ラグーザ
Vincenzo Ragusa
生没年:1841-1927
イタリアの彫刻家。シチリア島パレルモ近郊のパルタンナ・モンデルロに生まれる。少年時代に素描と鑿(のみ)の技法を修得し,独立戦争の義勇軍に加わった後に,25歳でパレルモの塑造学校で本格的な彫刻を学ぶ。イタリア・バロックの作風で,古典的な技法に精通した。1875年にイタリア政府は日本政府の委嘱による派遣彫刻教師選抜コンクールを行い,これに首席となったラグーザは,翌76年に工部美術学校の彫刻学科教師として来日。日本に初めて肉付け(モデリング)の技法を紹介し,セッコウの型取りや大理石の彫法あるいは建築の装飾にいたるまで基礎実技を指導した。弟子には大熊氏広(1856-1934),後に女子美術学校を創設する藤田文蔵(1861-1934)などがいる。ラグーザはロダンの彫刻が紹介される以前の,日本における近代彫刻史の序章を担う重要な役目を果たしたが,82年工部美術学校彫刻学科廃止後,妻となる清原玉(1861-1939)をともなって帰国。没するまでパレルモ市の美術工芸学校長を務め,日本美術の紹介や作品制作にはげんだ。主な作品に《日本の娘》《日本の俳優》(東京芸術大学)などがある。
執筆者:酒井 忠康
ラグーザ
Ragusa
イタリア南部,シチリア島南東部にある同名県の県都。人口6万3898(1981)。旧地区ラグーザ・イブラと1693年の大地震のあと建設されたラグーザからなり,1926年合併。ビザンティン,イスラム教徒,ノルマン,アラゴンの支配を受けた。1970年代から石油化学の町として脚光を浴び,近隣のジェーラまでの沿岸平野には石油の大コンビナートが建設され,イタリアの石油産出量の4/5を占める。
執筆者:望月 一史
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ラグーザ
没年:1927.3.13(1927.3.13)
生年:1841.7.8
明治期に来日し,日本に近代洋風彫刻を紹介,指導したイタリア人彫刻家。お雇い教師。シチリア島パレルモ市近郊に生まれ,パレルモ塑造学校に学んだ。1872年,全イタリア美術展に「装飾暖炉」を出品して最高賞を受け,世に認められる。明治9(1876)年,日本政府の依頼によりイタリア政府が行った選抜を経て,工部美術学校彫刻科教師として来日。油土や石膏などの新素材と,写実を重んずる西洋風の彫刻を日本に伝えた。この間,「日本の俳優」(市川団十郎,東京芸大蔵)など日本人をモデルにしたブロンズ像を制作。1884年,のちに妻となる清原玉とその姉夫妻を伴って帰国。1886年パレルモに日本の工芸をも教授する工芸学校を創立してその校長となる一方,パレルモの公園に立つ「ガリバルディ騎馬像」など,肖像を中心に多くの作品を残した。明治16年の工部美術学校廃止以後,32年に東京美術学校(東京芸大)で洋風彫刻を教えるようになるまで,日本の洋風彫刻には正式な教育の場がなかったが,その命脈は,ラグーザの親身の指導を慕った弟子たちによって保たれた。<参考文献>隅元謙次郎『近代日本美術の研究』,東京国立近代美術館『フォンタネージ,ラグーザと明治前期の美術展/図録』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
ラグーザ
Ragusa, Vincenzo
[生]1841.7.8. シチリア,パレルモ
[没]1927.3.13. シチリア,パレルモ
イタリアの彫刻家。絵画と象牙彫刻を学んだのち,彫刻を修業。 1872年ミラノの全イタリア美術展で最高賞を受賞。 1876年イタリア政府の日本派遣彫刻教師として,A.フォンタネージらとともに訪日。工部美術学校で日本で最初に西洋彫刻の技法,すなわち油土 (粘土) によるモデリング (肉づけ) を基本とする塑像を指導し,美術の一分野としての「彫刻」という概念を初めて日本にもたらした。 1882年同校の廃止とともに夫人清原玉を同伴して帰国。パレルモに工芸学校を創立して,その校長を務め,彫刻の指導にあたった。主要作品『日本の婦人』 (東京芸術大学) ,『日本の俳優』 (1881,同) ,『ガリバルディ騎馬像』 (パレルモ,イギリス公園内) など。
ラグーザ
Ragusa
イタリア南西部,シチリア島の南東部にあるシチリア州ラグーザ県の県都。イルミニオ川にのぞみ,標高 498mの丘陵地に位置する。現在ラグーザイブラと呼ばれる下町が,古代都市ヒブラヘラエアの跡とされる。 1926年この古い地区と丘の上の新しい町とが合併してラグーザがつくられた。市の近くでは現在アスファルトと石油の採掘が行われ,化学工業なども立地する。ゴシック様式の聖堂や 18世紀のバロック様式の建築物がある。人口6万 4195 (1991推計) 。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ラグーザ
Vincenzo Ragusa
1841.7.8~1927.3.13
イタリアの彫刻家。シチリア島パレルモ生れ。パレルモ塑像学校で学ぶ。全イタリア美術展では暖炉装飾彫刻で最高賞を受賞。日本派遣の選抜競技会に首席で合格,日本政府に招かれ1876年(明治9)来日し,工部美術学校彫刻科教授となる。約6年間滞日し,アカデミックな写実主義彫刻の技術と理論を教え,日本の洋風彫刻の基礎を築いた。清原玉と結婚。帰国後,パレルモに工芸学校を設立。日本の漆芸を伝えることに尽力した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
ラグーザ
イタリアの彫刻家。シチリア島生れ。イタリア政府の日本派遣彫刻教師選抜競技会に首席となり,1876年来日し,1884年に帰国するまで,工部美術学校彫刻科教授として日本の洋風彫刻の育成に尽力。門下生に大熊氏広,藤田文蔵らがいる。日本での作品に,滞日中にめとった清原玉〔1861-1939〕をモデルとする《清原玉女像》や《日本の娘》などがあり,帰国後の代表作に《ガリバルジ騎馬像》がある。妻の玉は画家となり,ラグーザの没後,1933年帰国した。
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ラグーザ Ragusa, Vincenzo
1841-1927 イタリアの彫刻家。
1841年7月8日生まれ。明治9年(1876)工部美術学校教授として来日。西洋彫刻をおしえ,大熊氏広,藤田文蔵らをそだてた。のちに妻となる清原玉をともなって15年帰国し,郷里のパレルモに美術工芸学校を創設した。1927年3月13日死去。85歳。作品に「清原玉女像」「日本の俳優」など。
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ラグーザ
Vincenzo Ragusa
1841〜1927
イタリアの彫刻家。御雇外国人の一人
1876年,絵画のフォンタネージ,図案のカッペルレッティとともに来日,工部大学校付属美術学校教授となる。日本で初めて洋風彫刻を教え,日本的題材の作品も残した。日本人の夫人ラグーザお玉(清原玉)も洋画家として活躍。'82年帰国した。代表作に『清原玉女像』など。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内のラグーザの言及
【ドゥブロブニク】より
…クロアチア南部,ダルマツィア海岸にある都市で,同国最大の観光地。イタリア名ラグーザRagusa。人口5万(1991)。…
【ドゥブロブニク】より
…クロアチア南部,ダルマツィア海岸にある都市で,同国最大の観光地。イタリア名ラグーザRagusa。人口5万(1991)。…
※「ラグーザ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」