ラグーザ(読み)らぐーざ(英語表記)Vincenzo Ragusa

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラグーザ」の意味・わかりやすい解説

ラグーザ(Vincenzo Ragusa)
らぐーざ
Vincenzo Ragusa
(1841―1927)

イタリアの彫刻家。シチリア島パレルモ近郊に生まれる。1876年(明治9)工部美術学校創設の際、教授として画家フォンタネージ、建築家カペレッティGiovanni Vincenzo Cappelletti(1843―1887)と来日。大熊氏広(おおくまうじひろ)(1856―1934)、藤田文蔵(ふじたぶんぞう)(1861―1934)らを育てて、1882年の同校彫刻科廃止まで滞在した。典雅で写実的な作風で日本の彫刻界に大きな刺激を与え、洋風彫刻勃興(ぼっこう)の端緒をなした。この間、1880年に清原玉(きよはらたま)(1861―1939)と結婚、彼女を伴って帰国し、パレルモで美術工芸学校を創設、同地に没した。代表作に夫人をモデルとした『清原玉像』『日本の婦人』のほか『日本の俳優』(いずれも東京芸術大学蔵)や、帰国後の『ガリバルディ騎馬銅像』などがある。

 ラグーザ玉の通称で知られる夫人は、渡伊後の1889年、教会で結婚式をあげてエレオノーラ・ラグーザ改名、本格的に油彩画を習得して各地で受賞し、日本の女流洋画家第一号と称された。ラグーザの死後、1933年(昭和8)に帰国して1939年に東京で没。

[佐藤昭夫 2018年8月21日]

『木村毅編『ラグーザお玉自叙伝』(1980・恒文社)』『加地悦子著『ラグーザ玉 女流洋画家第一号の生涯』(1984・日本放送出版協会)』


ラグーザ(イタリア)
らぐーざ
Ragusa

イタリア、シチリア島の南部、ラグーザ県の県都。人口6万8346(2001国勢調査速報値)。イブレイ山地の南麓(なんろく)、イルミーニオ川右岸の標高497メートルに位置する。市は旧市街のラグーザ・イブラと1693年の地震後に形成された新市街ラグーザ・スペリオーレの二つの核から構成される。農産物の取引や瀝青(れきせい)の採掘が行われてきたが、1953年に付近で油田が発見されたことによって精油業も発達した。75キロメートルの石油パイプラインでイオニア海岸の町アウグスタと結ばれている。

[堺 憲一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラグーザ」の意味・わかりやすい解説

ラグーザ
Ragusa, Vincenzo

[生]1841.7.8. シチリア,パレルモ
[没]1927.3.13. シチリア,パレルモ
イタリアの彫刻家。絵画と象牙彫刻を学んだのち,彫刻を修業。 1872年ミラノの全イタリア美術展で最高賞を受賞。 1876年イタリア政府の日本派遣彫刻教師として,A.フォンタネージらとともに訪日。工部美術学校で日本で最初に西洋彫刻の技法,すなわち油土 (粘土) によるモデリング (肉づけ) を基本とする塑像を指導し,美術の一分野としての「彫刻」という概念を初めて日本にもたらした。 1882年同校の廃止とともに夫人清原玉を同伴して帰国。パレルモに工芸学校を創立して,その校長を務め,彫刻の指導にあたった。主要作品『日本の婦人』 (東京芸術大学) ,『日本の俳優』 (1881,同) ,『ガリバルディ騎馬像』 (パレルモ,イギリス公園内) など。

ラグーザ
Ragusa

イタリア南西部,シチリア島の南東部にあるシチリア州ラグーザ県の県都。イルミニオ川にのぞみ,標高 498mの丘陵地に位置する。現在ラグーザイブラと呼ばれる下町が,古代都市ヒブラヘラエアの跡とされる。 1926年この古い地区と丘の上の新しい町とが合併してラグーザがつくられた。市の近くでは現在アスファルトと石油の採掘が行われ,化学工業なども立地する。ゴシック様式の聖堂や 18世紀のバロック様式の建築物がある。人口6万 4195 (1991推計) 。

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