工部美術学校 (こうぶびじゅつがっこう)
1876年,絵画,彫刻の技術教育を目的に工部省工学寮内に設けられた日本最初の官立美術学校。創立の経過は,まず前年4月工部卿伊藤博文から太政大臣三条実美へ画学,造家,彫刻に関する教師各1名をイタリアから招聘(しようへい)したい旨の具申があり,5月に許可された。イタリア人教師の招聘は,当時の駐日公使アレッサンドロ・フェ・ドスティアーニ伯の強い建言によっている。選考の結果,画家フォンタネージ,彫刻家ラグーザ,建築家カペレッティの3名の来日が決定,ローマで各3ヵ年の雇用契約を結び翌76年8月到着した。11月6日工部省工学寮美術学校を設け,諸規則を定め,同20日工部美術学校画学,彫刻学2科の教場を開き,試験により生徒を入学させ授業を開始するに至っている。なおカペレッティは予科を担当した。工部省の付属機関であることから明らかなように,政府の殖産興業政策を色濃く反映して設立された美術学校であるが,結果的にはヨーロッパの正則な美術教授法が初めて導入されたことになり,開校当初からとくに画学へは小山正太郎,浅井忠,五姓田(ごせだ)義松,山本芳翠,松岡寿(ひさし)ら主要な洋画家がこぞって入学した。しかし77年工部省諸寮が廃されて工学寮は工作局に属し工部大学校となり,82年12月工部美術学校は閉校,翌年1月廃校となる。その理由は明確でないが,西南戦争後の政府の財政難,この時期の国粋主義の影響等が考えられる。この間,77年には画学生徒39名(うち女生徒6名),彫刻学生徒29名を数え,82年6月に彫刻学生徒20名に卒業・修業証書,翌年1月に画学生徒15名に修業証書が与えられた。また78年11月には,フォンタネージの後任となったフェレッティの教授を不満とする小山,浅井らの連袂退学事件が起こっている。
→画学校
執筆者:三輪 英夫
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工部美術学校
こうぶびじゅつがっこう
日本最初の官立の美術学校。明治政府は早くから欧米諸国の専門家を招いて各分野の指導をゆだねたが、洋風美術発展のため、1876年(明治9)工部省工学寮付属の美術学校(いわゆる工部美術学校)を設け、とりあえず虎ノ門(とらのもん)の工学寮内の旧工作局の建物を改造して、同年11月に開校した。それに先だって1875年4月に工部卿(きょう)伊藤博文(いとうひろぶみ)は、絵画、彫刻および建築を担当する3名の教師を美術の先進国から招聘(しょうへい)することになり、イタリア政府に派遣を依頼した。当時の駐日公使アレッサンドロ・フェ伯Alessandro Fè d'Ostiani(1825―1905)の強い進言により、画家としてフォンタネージ、彫刻家としてラグーザ、建築家としてカペレッティGiovanni Vincenzo Cappelletti(1843―1887)の来日が決定し、1876年8月に到着した。最初の入学者には小山正太郎、松岡寿(まつおかひさし)、浅井忠(あさいちゅう)、五姓田義松(ごせだよしまつ)、山本芳翠(やまもとほうすい)らがおり、女子の入学も許可した。国家財政の窮乏、社会状勢の変化により1883年に閉鎖されたが、明治初期の洋画教育、普及に貢献をした。
[永井信一 2018年9月19日]
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世界大百科事典(旧版)内の工部美術学校の言及
【フォンタネージ】より
…69年トリノのアルベルティーナ美術学校の風景画教授になる。76年,日本政府が工部美術学校を創立して,本格的な西洋美術教育を実施するに際して,〈御雇外国人教師〉の一人として,[ラグーザ],[カペレッティ]とともに来日。石膏像,画学教科書,画材などを携帯してきて,デッサン,油彩の基礎教育を行う。…
【明治・大正時代美術】より
…高橋はここで油絵,水彩画の実技指導を受ける。さらに76年新政府が西欧の科学技術摂取のために置いた工部大学校(東京大学工学部の前身)には,付属して[工部美術学校]が開設されたが,その主任教授として来日したイタリア人風景画家[A.フォンタネージ]の教示を受けるようになって,高橋の画技は急速に進んだ。高橋はその代表作《鮭》《なまり節》(ともに1877)など,日常生活の身近な事物を題材として,また遠近法や明暗法をとり入れた《浅草遠望》(1878),《不忍池》(1880)などの風景画によって,写実主義を移植し,天絵楼(てんかいろう)画塾を開いて後進を指導した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」