世界大百科事典 第2版 「工部美術学校」の意味・わかりやすい解説
こうぶびじゅつがっこう【工部美術学校】
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
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日本最初の官立の美術学校。明治政府は早くから欧米諸国の専門家を招いて各分野の指導をゆだねたが、洋風美術発展のため、1876年(明治9)工部省工学寮付属の美術学校(いわゆる工部美術学校)を設け、とりあえず虎ノ門(とらのもん)の工学寮内の旧工作局の建物を改造して、同年11月に開校した。それに先だって1875年4月に工部卿(きょう)伊藤博文(いとうひろぶみ)は、絵画、彫刻および建築を担当する3名の教師を美術の先進国から招聘(しょうへい)することになり、イタリア政府に派遣を依頼した。当時の駐日公使アレッサンドロ・フェ伯Alessandro Fè d'Ostiani(1825―1905)の強い進言により、画家としてフォンタネージ、彫刻家としてラグーザ、建築家としてカペレッティGiovanni Vincenzo Cappelletti(1843―1887)の来日が決定し、1876年8月に到着した。最初の入学者には小山正太郎、松岡寿(まつおかひさし)、浅井忠(あさいちゅう)、五姓田義松(ごせだよしまつ)、山本芳翠(やまもとほうすい)らがおり、女子の入学も許可した。国家財政の窮乏、社会状勢の変化により1883年に閉鎖されたが、明治初期の洋画教育、普及に貢献をした。
[永井信一 2018年9月19日]
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…69年トリノのアルベルティーナ美術学校の風景画教授になる。76年,日本政府が工部美術学校を創立して,本格的な西洋美術教育を実施するに際して,〈御雇外国人教師〉の一人として,ラグーザ,カペレッティとともに来日。石膏像,画学教科書,画材などを携帯してきて,デッサン,油彩の基礎教育を行う。…
…高橋はここで油絵,水彩画の実技指導を受ける。さらに76年新政府が西欧の科学技術摂取のために置いた工部大学校(東京大学工学部の前身)には,付属して工部美術学校が開設されたが,その主任教授として来日したイタリア人風景画家A.フォンタネージの教示を受けるようになって,高橋の画技は急速に進んだ。高橋はその代表作《鮭》《なまり節》(ともに1877)など,日常生活の身近な事物を題材として,また遠近法や明暗法をとり入れた《浅草遠望》(1878),《不忍池》(1880)などの風景画によって,写実主義を移植し,天絵楼(てんかいろう)画塾を開いて後進を指導した。…
※「工部美術学校」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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