アメリカのアジア研究家。幼年期を中国で過ごす。ハーバード大学などで学び、1934年から太平洋問題調査会の『パシフィック・アフェアーズ』誌編集長。1938年ジョンズ・ホプキンズ大学講師。のち教授に就任。極東問題に対する学識が買われ、1941~1942年蒋介石(しょうかいせき)の政治顧問。1943年から戦時情報局極東部主任。第二次世界大戦後は、1945年(昭和20)10月対日賠償使節団の一員として訪日するなど、初期の占領政策に少なからぬ影響を与えた。1950年マッカーシズムの赤狩り攻撃を受けたが、上院の聴聞会で反撃。しかし1963年アメリカを去り、イギリスに渡った。同年から1970年までイギリス・リーズ大学教授。そののちパリのラティモア・モンゴル学研究所所長。
[藤本 博]
『ラティモア著、陸井三郎訳『アメリカの審判』(1951・みすず書房)』▽『ラティモア著、磯野富士子訳『ラティモア 中国と私』(1992・みすず書房)』▽『長尾龍一著『アメリカ知識人と極東――ラティモアとその時代』(1985・東京大学出版会)』
アメリカ生れの東洋学者。特に内陸アジア史研究の権威。幼くして両親に従って中国に渡り,12歳まで滞在した。成人したのちにも英字新聞の記者として,あるいはアメリカの社会科学研究会,地理学会の援助で中国,特に内モンゴル,新疆一帯を旅行した。1941年には蔣介石の政治顧問となり,44年には米副大統領ウォーレスに従って初めてモンゴル人民共和国を訪れた。彼は各地を実地見聞するとともに,当時の中国,モンゴルの状況を分析し,多くのすぐれた著作を著した。しかし彼のこうした中国への理解は誤解を呼び,50年ころアメリカに吹き荒れた〈赤狩り〉に巻き込まれ,共産主義者のレッテルを張られ,ついにアメリカを去った。ソルボンヌ大学を経て63年からはイギリスのリーズ大学中国研究所主任教授となった。その後これを辞し,フランスに渡ってパリにラティモア研究所を設立した。おもな著作に《西域への砂漠の道》《中国》《アジアの焦点》《モンゴル--遊牧民と人民委員》その他がある。
執筆者:森川 哲雄
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1900~89
アメリカの中国および内陸アジア研究者。ワシントンに生まれる。第二次世界大戦中は蒋介石(しょうかいせき)の私的な政治顧問を務め,戦後は対日賠償問題委員として来日した。戦後はジョン・ホプキンス大学教授。中国辺境問題の第一人者として国際政治の面でも活躍した。著書に『アジアの焦点』などがある。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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