ラティモア(読み)らてぃもあ(その他表記)Owen Lattimore

デジタル大辞泉 「ラティモア」の意味・読み・例文・類語

ラティモア(Owen Lattimore)

[1900~1989]米国の東洋学者。第二次大戦前後に中国辺境地帯を踏査して内陸アジア研究、大戦中は蒋介石の特別顧問となる。1945年には、対日賠償使節団の一員として訪日した。著「中国」「アジア焦点」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラティモア」の意味・わかりやすい解説

ラティモア
らてぃもあ
Owen Lattimore
(1900―1989)

アメリカのアジア研究家。幼年期を中国で過ごす。ハーバード大学などで学び、1934年から太平洋問題調査会の『パシフィック・アフェアーズ』誌編集長。1938年ジョンズ・ホプキンズ大学講師。のち教授に就任。極東問題に対する学識が買われ、1941~1942年蒋介石(しょうかいせき)の政治顧問。1943年から戦時情報局極東部主任。第二次世界大戦後は、1945年(昭和20)10月対日賠償使節団の一員として訪日するなど、初期の占領政策に少なからぬ影響を与えた。1950年マッカーシズム赤狩り攻撃を受けたが、上院の聴聞会で反撃。しかし1963年アメリカを去り、イギリスに渡った。同年から1970年までイギリス・リーズ大学教授。そののちパリのラティモア・モンゴル学研究所所長。

[藤本 博]

『ラティモア著、陸井三郎訳『アメリカの審判』(1951・みすず書房)』『ラティモア著、磯野富士子訳『ラティモア 中国と私』(1992・みすず書房)』『長尾龍一著『アメリカ知識人と極東――ラティモアとその時代』(1985・東京大学出版会)』

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改訂新版 世界大百科事典 「ラティモア」の意味・わかりやすい解説

ラティモア
Owen Lattimore
生没年:1900-89

アメリカ生れの東洋学者。特に内陸アジア史研究の権威。幼くして両親に従って中国に渡り,12歳まで滞在した。成人したのちにも英字新聞の記者として,あるいはアメリカの社会科学研究会,地理学会の援助で中国,特に内モンゴル,新疆一帯を旅行した。1941年には蔣介石の政治顧問となり,44年には米副大統領ウォーレスに従って初めてモンゴル人民共和国を訪れた。彼は各地を実地見聞するとともに,当時の中国,モンゴルの状況を分析し,多くのすぐれた著作を著した。しかし彼のこうした中国への理解は誤解を呼び,50年ころアメリカに吹き荒れた〈赤狩り〉に巻き込まれ,共産主義者のレッテルを張られ,ついにアメリカを去った。ソルボンヌ大学を経て63年からはイギリスのリーズ大学中国研究所主任教授となった。その後これを辞し,フランスに渡ってパリにラティモア研究所を設立した。おもな著作に《西域への砂漠の道》《中国》《アジアの焦点》《モンゴル--遊牧民人民委員》その他がある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラティモア」の意味・わかりやすい解説

ラティモア
Lattimore, Owen

[生]1900.7.29. アメリカ,ワシントンD.C.
[没]1989.5.31. アメリカ,ロードアイランド,ポータケット
アメリカのアジア研究家。幼時両親とともに中国に渡り,12歳まで過した。その後イギリスで教育を受けたのち,1919年再び中国に移り,商社員や新聞記者を経て,25年以来中国研究にたずさわった。 28~29,30~31年ハーバード大学大学院で学んだ。 34~41年太平洋問題調査会の機関誌『パシフィック・アフェアーズ』の編集を担当。第2次世界大戦中,41~42年蒋介石総統特別政治顧問,43~44年アメリカ政府戦時情報局太平洋作戦部長などをつとめた。戦後はジョンズ・ホプキンズ大学教授となったが,50年マッカーシズム旋風 (赤狩り) によって職を去り,63年7月以来イギリスのリーズ大学教授をつとめ,70年引退。彼の研究は中国の辺境問題に重点がおかれ,『満州における蒙古民族』 The Mongols of Manchuria (1934) ,『中国の内陸アジア辺境』 Inner Asian Frontiers of China (40) などはその代表的著作。

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百科事典マイペディア 「ラティモア」の意味・わかりやすい解説

ラティモア

米国の東洋学者。1920年中国に渡り,上海,北京,天津などで商業に従事。1926年モンゴル,1927年トルキスタンを旅行。1928年帰国してハーバード大学に学び,1929年中国東北調査旅行。以後1937年まで中国各地,モンゴルを調査し,辺境の理解こそ中国を解く鍵(かぎ)とした。第2次大戦中は蒋介石の顧問,太平洋作戦部長,副大統領ウォーレスの随員などをつとめ,戦後,対日賠償使節経済顧問として来日。1950年代にはマッカーシイズムの攻撃の対象とされ,のち英国,フランスに渡った。著書《西域への砂漠の道》《モンゴル―遊牧民と人民委員》《中国》など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ラティモア」の解説

ラティモア Lattimore, Owen

1900-1989 アメリカの東洋学者。
1900年7月29日生まれ。幼・少年期を中国ですごし,帰国後ハーバード大にまなぶ。満州(中国東北部),モンゴルの調査をおこない,太平洋問題調査会の機関誌主筆,ジョンズ-ホプキンズ大教授などを歴任。第二次大戦中,蒋介石(しょう-かいせき)の政治顧問をつとめた。昭和20年対日賠償使節団の一員として来日。1989年5月31日死去。88歳。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ラティモア」の解説

ラティモア
Owen Lattimore

1900~89

アメリカの中国および内陸アジア研究者。ワシントンに生まれる。第二次世界大戦中は蒋介石(しょうかいせき)の私的な政治顧問を務め,戦後は対日賠償問題委員として来日した。戦後はジョン・ホプキンス大学教授。中国辺境問題の第一人者として国際政治の面でも活躍した。著書に『アジアの焦点』などがある。

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