ウォーレス(読み)うぉーれす(英語表記)Alfred Russel Wallace

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウォーレス」の意味・わかりやすい解説

ウォーレス(Alfred Russel Wallace)
うぉーれす
Alfred Russel Wallace
(1823―1913)

イギリスの博物学者、進化論者。マンモスシャーに生まれ、土地測量や建築業に従事したが、学校教員時代に昆虫学者ベーツH. W. Bates(1825―1892)と知り合い、1848年から1852年まで、ともにアマゾン地方の博物採集を行った。さらに1854年から1862年にかけてマレー諸島に旅行し、博物学および動物地理学の研究を行った。この間に経済学者マルサスの『人口論』を読んで、ダーウィンとは独立に生物進化の「自然選択」の原理に思い至り、「変種がもとの型から出て無限に離れていく傾向について」On the tendency of varieties to depart indefinitely from the original typeという論文を書いて、1858年2月にダーウィンに送った。ダーウィンはこの論文を地質学者のライエルに送り、ライエルと植物学者のフッカーの勧めによって、自説抜粋や、アメリカの植物学者グレーへの手紙をウォーレスの論文とともにリンネ学会で発表し、一方、執筆中であった種の起原に関する大著を中止してあらましのみを書き上げ、翌年に『種の起原』として出版した。ウォーレスは「自然選択による種の進化」の考えをダーウィンの功績に帰し、それを「ダーウィニズム」とよび、1889年には同名の著書を出版した。そのほか、生物の分布に関する研究でも大きな業績をあげ、オーストラリア区と東洋亜区との境界線であるウォーレス線(ワラス線)にその名をとどめている。進化論に関しては、のちに、人類の脳は自然選択の結果ではありえず、「なんらかの高度な知性存在が、人類の発達過程を方向づけた」と結論して、ダーウィンと対立した。晩年は心霊術に凝り、また種痘には、動物の成分を人間に接種することは人間性に対する冒とくであるとして、反対を唱えた。

[八杉貞雄]

『ブラックマン著、羽田節子・新妻昭夫訳『ダーウィンに消された男』(1984・朝日新聞社)』


ウォーレス(Henry Agard Wallace)
うぉーれす
Henry Agard Wallace
(1888―1965)

アメリカの政治家。アイオワ州生まれ。アイオワ州立大学卒業。ジャーナリスト、科学的農学者、哲学的神秘主義者であり中西部の進歩派を代表した。ルーズベルト政権の農務長官(2期)として農業調整法などニューディール農業政策を推進。第二次世界大戦時の副大統領(1941~1945)。1945年再転換期の商務長官としてリベラル急進勢力の中心にあったが、対ソ政策をめぐりトルーマン大統領と対立、1946年9月辞任した。その後『ニュー・リパブリック』編集長を経て進歩党を結成。国内改革と対ソ協調を訴え1948年大統領選挙に出馬したが惨敗。朝鮮戦争を契機に対ソ「宥和(ゆうわ)」を自己批判し、党首を辞した。

[牧野 裕]


ウォーレス(George Corley Wallace)
うぉーれす
George Corley Wallace
(1919―1998)

アメリカの政治家。アラバマ州の農家に生まれ、1942年アラバマ大学卒業。同州地方検事補、州議会議員、地裁判事を経て、1963年州知事(民主党)に当選。1963年、州兵を動員しアラバマ大学への黒人学生入学を阻もうとしてケネディ政権と対立、南部政界内の極端な人種差別主義者として名をはせる。知事任期満了後(夫人が後継)は、ケネディ‐ジョンソン政権やリベラル派主導の対内宥和(ゆうわ)政策に反発を強め、1967年アメリカ独立党を結成、翌1968年大統領選挙に出馬した。その後、南部保守派への強い影響力を背景に州知事へ復帰(1971~1978)。1972年、1976年には南部民主党から大統領予備選挙に立候補した。1972年選挙運動中に狙撃(そげき)され下半身不随となった。

[牧野 裕]

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