改訂新版 世界大百科事典 「ラブロフ」の意味・わかりやすい解説
ラブロフ
Pyotr Lavrovich Lavrov
生没年:1823-1900
ロシアのナロードニキの理論家。プスコフ県の貴族出身。1844年から66年までペテルブルグのミハイル砲兵学校で数学教師を務める。1859年《人格論概要》と題する主体性重視の実践哲学を発表し,60年からチェルヌイシェフスキー,ピーサレフらと哲学論争を行う。66年逮捕されボログダに流刑,68-69年に歴史発展における主体的・批判的に思考する個人の重要性を論じた代表作《歴史書簡》を発表。これを70年代のナロードニキは〈革命の福音書〉と呼ぶ。70年G.A.ロパーチンの助けでパリに亡命し,第一インターナショナルに加入,71年パリ・コミューンに参加した。敗北後マルクス,エンゲルスとともに救援活動を行うが,第一インター分裂の際中間的立場をとり,マルクスたちとの関係が冷却した。73年から機関誌《前進》を発行(機関誌は1877年まで存続するが,ラブロフの編集は1876年まで),ラブロフ派ナロードニキの指導者となる。バクーニン派の即時農民蜂起扇動論にもトカチョーフの革命党政権奪取論(政治闘争,陰謀)にも反対して,ラブロフ派は社会革命の準備,宣伝,経済闘争を当面の課題とし,都市の労働者の組織化に力を注ぐ。76年末,政治闘争の必要を訴え《前進》派と決別。83年から86年まで《人民の意志通報》をチホミーロフとともに編集,チホミーロフの転向後も人民の意志派を支持し,93年〈古参人民の意志派〉を形成する。1900年パリで客死した。ラブロフの世界観は〈主観的社会学〉〈倫理的社会主義〉〈折衷主義〉などと呼ばれてきたが,実践哲学はカント,ヘーゲル左派,学問的立場はコントの社会学の影響が濃い。ロシアへのヘーゲル哲学の紹介者の一人で,またマルクス,エンゲルスとロシア革命運動とを結ぶ仲介者であった。
執筆者:佐々木 照央
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報