ルター訳聖書 (ルターやくせいしょ)
宗教改革者ルターは,キリスト教信仰が聖書のみによるべきことを主張したが,1521年5月から,ワルトブルク城に保護されていた9ヵ月間のうちの10週ほどをかけて,新約聖書を,ギリシア文を参照しつつ,当時一般的だったラテン語訳《ウルガタ》からドイツ語に翻訳した。これはやがて22年9月ウィッテンベルクで,当時としては多い部数である3000部が出版されたので,《9月聖書》と呼ばれる。ルター以前にも,部分訳を含め少なくも14種のドイツ語訳聖書が存在していたといわれるが,ルターのそれは多くの読者を得,その年のうちに第2版3000部を増刷しなければならなかったほどだという。ルターはその後,同僚メランヒトンらの助けも得て旧約聖書の翻訳を進めたが,旧・新約聖書全巻のドイツ語訳が出版されるのは34年のことである。ルターは民衆に理解できるよう平易に,しかも力強く,聖書の使信を明らかにしようとして,当時のザクセン宮廷ドイツ語によって翻訳したが,ドイツ語標準語化への道は,この《ルター訳聖書》によって開かれたと称されるほどドイツ語史上特筆すべき業績とされている。これに対抗したカトリック教会のドイツ語訳もルターのそれを参考にしなければならなかったといわれるし,W.ティンダルなどから《欽定訳聖書》に至る英訳聖書,また以後の各国語への聖書翻訳にも先鞭をつけたものといえよう。ドイツのプロテスタント教会では一部改訂した《ルター訳聖書》を今でも用いていることからも,その意義の大きさを知ることができる。
執筆者:徳善 義和
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ルター訳聖書
るたーやくせいしょ
Luther-bibel
宗教改革者ルターの訳したドイツ語聖書。新約は1522年、新・旧約の完訳は1534年の刊行。ドイツ語聖書は印刷術が発明されてから十数種出版されたが、すべてラテン語訳聖書(『ブルガーター訳聖書』)からの重訳であった。これに対して、ルターはギリシア語、ヘブライ語の原典から訳した点で特筆すべきである。その普及は驚異的で、近世のドイツ文章語の統一を進展させた。ドイツ語は当時多くの方言に分かれ、書きことばも他の所にあまり広がらなかったが、ルターは特種な方言でなく、共通語の兆しを示したザクセン官庁語を使った。ただし、それは語形だけで、語彙(ごい)や文体は硬い官庁的な表現を避け、民衆にわかりやすい新鮮さを求め、死の直前まで訳の改訂に努めた。この聖書の文学的な評価は、『欽定(きんてい)訳聖書』の場合とまったく同じで、ゲーテをはじめニーチェなどの言からも十分認められる。現在よく使われる慣用句や諺(ことわざ)のなかには『ルター訳聖書』に基づくものが多い。なお18世紀の初めから、原典の文体を残しながら古い語法を除いて読みやすくする努力が行われてきている。
[塩谷 饒]
『塩谷饒著『ルター聖書』(1983・大学書林)』
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世界大百科事典(旧版)内のルター訳聖書の言及
【欽定訳聖書】より
…しかし,その文体は簡勁で律動的な魅力をもち,1611年の刊行以来今日に至るまで3世紀半以上にわたり広く国民の書として愛誦され,英・米人の精神,思想,感情生活をはぐくんできた。シェークスピアの英語と並び,むしろそれ以上に,近代英語散文文体の形成に大きな役割を果たし,イタリア語形成に対するダンテ,近代標準ドイツ語の形成に果たした《[ルター訳聖書]》(1534)に比すべき意義をもつ。さらにそれ自体翻訳であるにもかかわらず,一つの文学作品として,後の英・米文学に与えた影響も絶大であり,日常英語に引用ないし言及される作品として最も人口に膾炙(かいしや)したものである。…
【宗教改革】より
…しかしルターはあくまで良心を曲げず,取消し要求に応じなかったので,皇帝はウォルムス勅令を発して彼の帝国公民権を奪い,その著作の禁圧を命じた。 ルターの保護者であるザクセン選帝侯[フリードリヒ3世](賢公)のはからいで,チューリンゲンのワルトブルク城に身を隠したルターは,ここで新約聖書のドイツ語訳(《[ルター訳聖書]》)という重要な仕事を短期間になしとげた(刊行は1522)。一方,皇帝はあたかもこのころ勃発したフランスとの戦争(イタリア戦争)のため,10年近くもドイツから遠ざかっていたので,ウォルムス勅令はほとんど空文と化し,ザクセン,ヘッセンなど,各地の領邦や帝国都市で福音主義の宣教が行われ,修道院の解散,典礼の改廃などを伴う教会生活の変革が,世俗権力の協力のもとでおし進められた。…
【聖書】より
…ただし,ドイツにおいては最初のドイツ語完訳聖書《メンテル聖書》が1466年に出版され,イギリスにおいても14世紀末[ウィクリフ]の提唱のもとに一門の人々が完成した全訳《ウィクリフ派英訳聖書》(1385ころ,改訳1395ころ)が見られるが,その完成後直ちに教会当局の厳しい弾圧を受けたこと,またなお印刷期以前であったため,この英訳聖書は広く流布するに至らなかった。 中世における聖書翻訳がいずれもラテン語訳聖書からの重訳であり,おもに写本の形で限られた範囲内の流布にとどまったのに対して,原典であるヘブライ語旧約聖書,ギリシア語新約聖書からの直接訳を試み,印刷本として広く流布される近代語聖書翻訳は,《[ルター訳聖書]》(新約1522,完訳1534)を嚆矢とする。これに踵(くびす)を接してイギリスの《ティンダル訳新約聖書》(1624)をはじめ,オランダ,デンマーク,スウェーデン,フィンランドなどで近代語訳聖書翻訳の気運が滔々(とうとう)として起こった。…
【ドイツ語】より
…このようにして,とくに,ウィーンにおけるハプスブルク家の皇帝官庁で用いられる官庁語は大きな影響力をもち,バイエルン,オーストリアを中心にしてドイツ東南部地方に,共通ドイツ語gemeines Deutschと呼ばれる比較的均一な通用語が生まれ,のち18世紀中ごろまで存続することになる。16世紀の宗教改革の時代に入り,ドイツ語による宗教論争に関する出版物が人々の間に流布するが,1522年のM.ルターによるドイツ語訳新約聖書(《[ルター訳聖書]》)は,その民衆の言葉に即したわかりやすさ,語彙選択の幅の広さなどの理由により,印刷術によって,短期間のうちに前例のないほどに全ドイツに広まった。ルターは聖書翻訳の際の語形など言語の外形を,当時ウィーンの皇帝庁と並んで有力であった,自己の出身地に近いザクセン地方のマイセンの官庁語に従わせるが,マイセンの官庁が存在するドイツ東中部地方の東中部ドイツ語の特徴をもったルターのドイツ語は,ドイツ西部,北ドイツの低地ドイツ語地域にも広まり,のちの統一されたドイツ文語の基礎となった(もっとも,バイエルンを中心とするカトリック地域のドイツ東南部の通用語とルターのドイツ語との言語的競合はしばらく続くことになる)。…
【ルター】より
… その帰途,選帝侯フリードリヒの保護検束によって以後9ヵ月ワルトブルク城にかくまわれる。騎士イェルクに身をかえたこの期間は著作活動とくに新約聖書のドイツ語訳という成果を残した(《[ルター訳聖書]》)。ウィッテンベルクでの改革の過激化と混乱の知らせを受けて,身の危険もかえりみず,22年3月そこに戻って,説教活動を基礎とした漸進的な具体的改革を指導し,礼拝改革,修道院解放,教会財産処理,貧民救済,学校教育確立のために働く。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」