レイトン(読み)れいとん(英語表記)Irving Peter Layton

日本大百科全書(ニッポニカ) 「レイトン」の意味・わかりやすい解説

レイトン(Irving Layton)
れいとん
Irving Peter Layton
(1912―2006)

カナダ詩人。旧姓ラザロビッチ。ユダヤ系。ルーマニアで生まれ、満1歳にならぬうちに両親とカナダのモントリオールへ移住した。地元のマクドナルド・カレッジを卒業、軍務に服したのち、マギル大学でMA(修士)を取得。移民相手の英語教師を務めるかたわら、モントリオールで刊行の同人誌『ファースト・ステートメント』(1942~45)により、カナダ社会の窮屈なお上品さに真っ向から挑戦し、生命と性を謳歌(おうか)する詩人として、若い世代に多大な影響を与えた。処女詩集『いま、ここで』(1945)に始まり、カナダ総督賞を受けた『太陽のための赤いじゅうたん』(1959)を経て、晩年選の詩集『最後審判』(1987)に至るまで、刊行した詩集は約50冊となる。ほかに散文集『係わり合い』(1972)、『加担して』(1977)、書簡集、自伝『メシアを待つ』(1985)などもあり、きわめて多作。カナダのいくつかの大学に学内居住作家として招聘(しょうへい)され、1969年から78年まではヨーク大学(トロント)英文科教授として「創作」を担当した。カナダの詩人としては、例をみないほど、血の気の多い、話題性に富む存在だったが、1990年代中ごろから、病(アルツハイマー)が重くなり、最後には、身寄りのない孤老として、ケベック州政府の公的介護を受ける身となった。

[平野敬一]


レイトン(Lord Frederick Leighton)
れいとん
Lord Frederick Leighton
(1830―1896)

イギリス画家彫刻家ヨークシャースカーバラに生まれ、フィレンツェフランクフルトローマパリなどを転々としながら絵の修業を積む。1855年、ロンドンロイヤル・アカデミーに出品した『フィレンツェの市中を行列して運ばれるチマブーエ聖母像』で一躍脚光を浴びた。60年ロンドンに居を構え、しだいに古代ギリシアに材をとった耽美(たんび)的な作品を制作するようになった。彫刻家としても知られ、代表作に『大蛇と闘う運動家』がある。78年からロイヤル・アカデミー会長を務め、96年には画家として初めて貴族に列せられた。

[谷田博行]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「レイトン」の意味・わかりやすい解説

レイトン
Leighton, Frederick Leighton

[生]1830.12.3. スカーバラ
[没]1896.1.25. ロンドン
イギリスの画家,彫刻家。フィレンツェのアカデミアをはじめ,ヨーロッパ各地で絵を学び,1849年にはフランクフルトで E.シュタインに師事。その後ローマを経て 52年にロンドンに戻り,55年のロイヤル・アカデミー展に『チマブエのマドンナ』を出品して名声を得,古代ギリシアやルネサンスに素材を求めた折衷的作風を確立した。 60年にロンドンに定住。 68年ロイヤル・アカデミー会員,78年同会長。 86年準男爵,96年の死の前日にイギリスの画家として初めて男爵の称号を得た。主要作品はロンドン,テート・ギャラリー蔵の絵画『プシュケの入浴』 (1890) ,彫刻『ピュトンと戦う競技者』 (77) 。

レイトン
Leighton, Margaret

[生]1922.2.26. ウースターシャー,バーントグリーン
[没]1976.1.13. チチェスター
イギリスの女優。 1938年にデビュー。シェークスピアからアメリカ現代劇にいたる幅広い芸域でロンドンおよびニューヨークで活躍。 T.ウィリアムズの『イグアナの夜』 (1962) のアンナではトニー賞を得た。

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