レニングラードバレエ団(読み)レニングラードバレエだん(その他表記)Leningrad Ballet

改訂新版 世界大百科事典 「レニングラードバレエ団」の意味・わかりやすい解説

レニングラード・バレエ団 (レニングラードバレエだん)
Leningrad Ballet

ロシアのバレエ団。従来の正称はキーロフ記念レニングラード国立オペラ・バレエ劇場(通称キーロフ劇場)バレエ団。1991年に旧称サンクト・ペテルブルグ・マリインスキー劇場キーロフ・バレエ団に戻った。劇場の歴史は1783年創立のペテルブルグのボリショイ(カメンヌイ)劇場に始まるが,バレエ団の起源はさらに古く,1738年開校の舞踊学校卒業生が宮廷舞踊劇に出演した42年とされている。外国人教師について西欧古典舞踊の技芸を習得したロシアの踊り手たちは,19世紀のはじめには自国民族舞踊をとりいれた作品を上演するほどに成長したが,先進国に学ぶ姿勢は変わらず,教師と踊り手の国外からの招聘は19世紀末まで続けられた。1860年カボスの設計になる新劇場が現在の劇場広場に竣工し,マリインスキー劇場と命名された。このころから衰退に向かう西欧のバレエとは反対に,このバレエ団を全盛に導いたのは,フランスから帰化したM.ペチパである。彼は諸国伝来の踊りから多種多彩な手法をとりいれ,とくに19世紀末の10年間にはチャイコフスキー,グラズノフの音楽によってバレエの交響楽的展開の方法を考案し,壮大なグランド・バレエの形式を完成させた。

 しかしペチパの弟子フォーキンは,〈真の舞踊芸術の美と詩はより簡素な形式のなかに求められる〉と主張し,その実践者となった。彼の作品は1909年ディアギレフの率いるロシア・バレエ団(バレエ・リュッス)によって西欧に紹介され成功をおさめたが,14年の第1次大戦勃発,17年のロシア革命と帝政の崩壊によって,母体である帝室マリインスキー劇場とのつながりを絶たれた。革命後国立オペラ・バレエと改称された劇場は,20年代にいたってようやく混迷を脱し,舞踊学校のA.Ya.ワガノワ門下からM.T.セミョーノワ,G.S.ウラノワ,男性舞踊手としてK.M.セルゲーエフ,V.M.チャブキアニらの逸材が輩出し,バレエ団は往時に劣らぬ陣容活力を回復した。

 30年代から40年代には若いバレエ・マスターたちがB.V.アサフィエフの《パリの炎》と《バフチサライの泉》,プロコフィエフの《ロミオとジュリエット》を演出,史実や文学作品をもとにした台本によって,バレエの真実性を深めようとする新しい〈ドラマ・バレエ〉のジャンルを確立した。これと前後して幹部要員のモスクワ転出があり,新旧首都におけるバレエ劇場に格差が生じたが,ロシア・バレエの揺籃として200年の伝統をもつキーロフ劇場はゆるがなかった。独ソ戦時代の疎開先ペルミではハチャトゥリヤンの《ガヤネー》が初演(1942)され脚光を浴びた。第2次大戦後の50年代から劇場の主要な努力は内外古典の復元と新上演にむけられたが,それは原作の意図と形式を綿密に追究し,その振付を生かす正統的な方法であったから,その成果は古典上演の模範として劇場の声価を高めた。一方,現代作曲家の新作上演ではショスタコービチの《レニングラード交響曲》(《交響曲第7番》),フレンニコフTikhon Nikolaevich Khrennikov(1913-2007)の《軽騎兵のバラッド》など,社会的主題の積極性とともに表現手法の多様化が目だっているが,クラシックの基本をふまえたもので,ここにバレエ団のもつ風格と気品の根源があり,内外に熱烈な愛好者をもつゆえんでもある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「レニングラードバレエ団」の意味・わかりやすい解説

レニングラード・バレエ団
レニングラード・バレエだん

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