ドイツの軍人。教師の子に生まれる。第一次世界大戦ではイタリア戦線で軍功をたて第一級鉄十字章およびプール・ル・メリット勲章を授与された。ナチス党員ではなかったが、ヒトラーを熱烈に支持し、ナチスの青年組織ヒトラー・ユーゲントの軍事教官となり、1938~1939年第二次世界大戦勃発(ぼっぱつ)時には総統本部警備司令官であった。1940年5月機甲師団を率いてアルデンヌ戦線を突破、盛名を馳(は)せた。1941年2月リビアに派遣されアフリカ軍団長となり、巧妙な戦術でイギリス軍を追い「砂漠の狐(きつね)」とよばれた。1942年元帥に昇進するが、同年10月に始まるイギリス軍の反攻を押さえられず、1943年3月にはチュニジアから撤退した。しばらく北イタリアで軍団を指揮したのち、同年12月北フランス海岸防衛を担当した。1944年6月連合軍が北フランスに上陸すると(ノルマンディー上陸作戦)、ヒトラーに休戦を訴えたが相手にされず、反ヒトラー・グループに接近した。ヒトラー暗殺未遂事件の直前に空襲のため重傷を負ったが、1944年10月自殺か大逆罪裁判かの選択を迫られ、自殺し、国防軍葬が行われた。
[吉田輝夫]
『ヤング著、清水政二訳『ロンメル将軍』(1978・早川書房)』
ドイツの陸軍元帥,第2次世界大戦における卓抜した野戦指揮官。バイエルン州ハイデンハイム出身。1910年ドイツ陸軍に入り,第1次世界大戦では歩兵小部隊指揮官として武名をあげ,第2次世界大戦では当初,ヒトラーの護衛隊長であったが,対フランス作戦で装甲師団長として長途の敵中突進で戦功をあげた。41年初頭,イタリア軍援助のための北アフリカ派遣ドイツ軍の司令官に起用され,砂漠の戦車機動戦で天才的な直観と決断力とを発揮して戦績を重ね,敵側から〈砂漠の狐〉と呼ばれるようになった。42年6月トブルクを陥し,エジプトに侵入し,アレクサンドリアにあと160kmと迫ったが,結局,補給の困難とイギリス軍の優勢で,エル・アラメインの戦に敗れ,チュニジアに後退,アフリカから去った。44年6月連合軍のノルマンディー上陸に際しては,この正面のB軍集団司令官で,7月負傷し,ヒトラー暗殺事件に連座,服毒を強要されて死んだ。
執筆者:前原 透
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1891~1944
ドイツの軍人。第一次世界大戦に従軍。第二次世界大戦ではフランス戦線,ついで北アフリカ戦線で活躍し,「砂漠の狐」の異名で敵味方に知られた。42年元帥になったが,同年10月エル・アラメーンでイギリス軍に敗れた。44年10月ヒトラー暗殺未遂事件に連座して自殺した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…第2次大戦における主要な決戦の一つ。北アフリカでロンメル指揮の枢軸国(ドイツ,イタリア)軍は西方よりイギリスの植民地エジプトに向け進攻した。敗退を重ねていたイギリス第8軍は,モンゴメリー将軍を指揮官に迎えてから態勢を立て直し,まず1942年8月末,アラム・ファルファの戦闘で枢軸国軍を撃退した。…
※「ロンメル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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