ワットタイラーの乱(読み)ワットタイラーノラン

デジタル大辞泉 「ワットタイラーの乱」の意味・読み・例文・類語

ワットタイラー‐の‐らん【ワットタイラーの乱】

1381年、英国で起こった農民一揆いっき人頭税徴収に対する不満を契機として起こり、ワットタイラー(Wat Tyler)を指導者として一時ロンドン占領、国王リチャード2世に農奴制廃止などを認めさせたが、タイラーが殺され、鎮圧された。

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精選版 日本国語大辞典 「ワットタイラーの乱」の意味・読み・例文・類語

ワットタイラー‐の‐らん【ワットタイラーの乱】

  1. ( ワットタイラーはWat Tyler ) 一三八一年イギリスに起こった農民一揆。指導者はワット=タイラー。農民の徴税拒否に始まり、南イングランド一帯に拡大し、ロンドンを占領したが、国王との交渉中タイラーが暗殺され、崩壊。イギリスの農奴制解体を促進させた。

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改訂新版 世界大百科事典 「ワットタイラーの乱」の意味・わかりやすい解説

ワット・タイラーの乱 (ワットタイラーのらん)

1381年に起こった中世イギリスの代表的農民一揆。異常気象による1315-17年の凶作と大飢饉,1348-50年以来のペストの反復流行により人口が激減した。また,農民逃散,労働力不足,賃金と手工業製品価格の騰貴,地代低下などが起こった。領主層はこれらに対処するため51年以降繰り返し議会で労働者規制法を制定し,物価規制,農業労働者の移動制限,農村住民への農業就労強制,領主の農業労働者優先雇用,賃金規制などを定め,実施のために労働者判事(1351),ついでこれに代わる治安判事(1361)の制度を設けて農業労働者,大農経営を圧迫した。一方,百年戦争により軍事費が増加したため租税負担が増大した。77年議会は14歳以上の全人口を対象に1人当り4ペンスの人頭税を新設し,79,80年と免税年齢,税率を変えて再三実施し,とくに80年のそれは重税であった(従来の直接税は財産税,定額税であったのに対し,新税は貧富に無関係の大衆課税)。脱税者が多く,政府は翌81年に調査を行った。同年5月脱税調査への実力抵抗が首都ロンドン北方で始まる。6月一揆は拡大し,元兵士タイラーWat Tyler(?-1381)とJ.ボールが指導者となる。6月13日一揆軍はロンドンを占領,翌日市北東部マイル・エンドで王と会見し,農奴制廃止,商品売買の自由,1エーカー当り4ペンスの地代,大赦を要求した。15日市内スミスフィールドで別の集団が王と会見し,領主制,農奴制,諸法制,司教制の廃止と教会財産の分配を要求した。この直後その場でタイラーは殺害され,一揆は瓦解した。遅れて東部一帯に一揆が広がったが,散発的であった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ワットタイラーの乱」の意味・わかりやすい解説

ワット・タイラーの乱
わっとたいらーのらん

1381年、イギリスで起こった農民一揆(いっき)。指導者ワット・タイラーWat Tyler(?―1381)にちなんでこの名がある。反乱はまず同年5月にケントで発生し、反徒はタイラーを指導者に選ぶと、6月13日にはロンドンに進入した。また、イースト・アングリア地方でも、修道院所領を中心に農民が荘園(しょうえん)領主の居館を襲うなど、騒乱は各地に広がった。国王リチャード2世は同月14日マイル・エンドで反徒が要求した項目の一部を承認したので、帰郷した部隊もあったが、ケント勢は武装を解かず、15日スミスフィールドで再度王と交渉した。この会見のさなかに、市長ウォルワースは、短剣を手に王の身近に迫るタイラーを見て斬りかかり、頭と首に重傷を負わせた。王が反徒に再会を約してロンドンに帰る間に病院に運ばれたタイラーは、市長によってふたたびスミスフィールドに連れ戻され、そこで首をはねられた。指導者を失った反乱軍は壊滅状態となり、やがて鎮圧された。

 反乱の原因は、直接には百年戦争の戦費調達のため賦課された人頭税にあるが、提出された「綱領」には、農奴身分の廃止、地代の減額、売買の自由などの要求項目が掲げられ、またこの反乱に思想的な影響を与えたジョン・ボールには、原始キリスト教への復帰を目ざす宗教改革の志向が認められるなど、反体制的運動の性格が強い。参加者も農民に限らず、都市の手工業者が主力をなした地域もあった。

[松垣 裕]

『ヒルトン・フェイガン著、田中浩・武居良明訳『イギリス農民戦争――1381年農民一揆』(1961・未来社)』

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百科事典マイペディア 「ワットタイラーの乱」の意味・わかりやすい解説

ワット・タイラーの乱【ワットタイラーのらん】

1381年英国で起こった農民一揆(いっき)。封建制度に対する農民の不満が,1377年以後実施された人頭税を機として爆発し,タイラーWat Tylerとボールの指導下に反乱を起こした。彼らは初めロンドンを占領し,国王リチャード2世に農奴制廃止などの要求を認めさせたが,急進的な一派はさらに活動を続けた。しかし国王の計略によりタイラーが殺されたため,反乱は鎮圧された。失敗に終わったが,この一揆の英国封建制の解体に果たした意義は大きい。
→関連項目農民一揆ロラード派

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旺文社世界史事典 三訂版 「ワットタイラーの乱」の解説

ワット=タイラーの乱
ワット=タイラーのらん
Wat Tyler

1381年,イギリスに起こった農民一揆
圧迫を強化した大封建領主に不満をもった農民は,人頭税の徴収を契機として反乱を起こした。反乱はエセックスからケントに広がり,さらに全国的に波及して,各地で略奪や虐殺が行われた。一揆の指導者ワット=タイラーは,ジョン=ボールとともにロンドンを占領し,リチャード2世に会見して農奴制の廃止,取引の自由,一揆参加者の不処罰などをいったんは認めさせた。しかし,その直後,奸計にあってタイラーが殺害され,一揆は総崩れとなって鎮圧された。この乱により,衰退期のイギリスの農奴制支配は大きな衝撃を受け,農奴解放が促進された。

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世界大百科事典(旧版)内のワットタイラーの乱の言及

【農民反乱】より

… 第2には,個別領主に対する要求の域を越え,国家の租税や軍隊の徴発などに反対する一揆であり,農民反乱の名で呼ばれるような大規模な蜂起には,この型のものが多い。ジャックリーの乱(1358)やワット・タイラーの乱(1381)も,その背景には領主と農民の基本的対抗関係があるものの,直接のきっかけとなったのは,百年戦争に対処するためのイギリス,フランス両王の租税増徴策であった。近世の絶対王政期には,この傾向はいっそう強まり,17世紀のフランスに頻発した民衆蜂起はその多くが反王税一揆であった。…

【ボール】より

…イギリスの放浪説教者,思想家でワット・タイラーの乱の組織者。反乱までの経歴は詳しくわかっていないが,北イギリスの修道院から南下し,農民の間で聖俗貴族を批判,平等主義,共産主義,階級の撤廃を説き,1360年代に破門された。…

※「ワットタイラーの乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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