デジタル大辞泉 「ワット」の意味・読み・例文・類語
ワット(watt)
わっ‐と
1 急に声をあげて泣くさま。「
2 大勢の人が一斉に騒ぎたてて声や音を出すさま。「
3 多数が一斉にある事をするさま。「
イギリスの機械技術者。蒸気機関の発明にもっとも大きな貢献をした人。スコットランドのグラスゴーに近い港町グリーノックに、船大工の子として生まれる。少年時代から手細工を好み、20歳前後にロンドンで器械工の徒弟となった。1757年グラスゴー大学の器械工となり、大学構内に仕事場をもった。1763年、物理学教授アンダーソンJohn Anderson(1726―1796)からニューコメン大気圧機関の修理を依頼されたとき、この機関の熱効率が低いことに気づき、シリンダーとコンデンサー(復水器)を分離する着想を得た。潜熱の発見者で同大学教授のJ・ブラックの教え子J・ローバックの経済的援助を得て研究を進めたが、ピストンのパッキングの問題にぶつかって開発ははかどらなかった。このこともあり、ワットは1767年スコットランドの運河測量士となり(~1774年まで)、その用務でロンドンに旅行し、1768年にはバーミンガムの工場主M・ボールトンに会った。彼は、ワットのかけがえのないパートナーになる。
1769年ワットはローバックの援助により、復水器をシリンダーから分離した蒸気機関に関する最初の特許を得た。1773年援助者のローバックが破産したが、かわってボールトンが協力を申し出て、1774年にはワット機関の特許権を得、翌1775年にはワットの特許権を25年間延長することに成功、バーミンガムに工場を経営するボールトン‐ワット商会の創業となった。1775年鉄器製造業者のウィルキンソンが大砲の砲身をくりぬく中ぐり盤を発明、これにより精確な蒸気機関用シリンダーが初めて製造可能になり、以後20年間、シリンダーはすべてウィルキンソンに注文されることになった。ボールトンとワットが製作した最初の機関はウィルキンソンの溶鉱炉の送風のためのものであった。この機関の成功によりコーンウォールの炭坑にワット機関が採用された。
ボールトンは、ワットに万能的原動機として広い用途をもつ回転運動の機関の開発を要求した。ワットは、初めクランク軸と連接棒で機関から回転運動を取り出すというアイデアを得たが、それに関する特許は他人に取られてしまっていた。ところが彼の有能な助手W・マードックの暗示から、太陽歯車と遊星歯車の伝導機構を発明し、1781年に特許を得た。この伝導機構は1794年にクランク軸と連接棒の特許が満期になるまで採用された。1782年には同じ容積のシリンダーから2倍の動力を得る複動機関と、蒸気の膨張を利用する二つの重要な特許を得た。1784年にはパンタグラフの原理を使う平行運動機構を、1787年には負荷が変化しても速さを一定に保つ遠心調速機を発明し、これらの新機軸を取り付けることによって、複動回転蒸気機関を完成させた。1800年に彼の主特許である独立復水器の期限が満了になったが、その時までそれはそのままつくり続けられ、複動回転蒸気機関は最初に作業機の現れた繊維工場で急速に普及した。
なお、ボイラーの煤煙(ばいえん)防止装置(1785)、圧力計(1750)などを発明し、「馬力」の単位による動力の測定も行った。仕事率の単位「ワット」は彼の名にちなんでいる。
1794年、パートナーのボールトンのほかに、息子を加えて新しい企業を設立し、しだいに息子たちに事業を譲っていった。1795年、ソホに鋳物工場を設立してワット機関の大量生産に着手したが、息子たちは原価計算制と能率給を会社経営に導入した。1800年、主特許の期限が切れ、ボールトンとの共同事業も終わり、ワットも経営から身を引いた。
その後、余生を楽しみながら、彫刻を複製する機械などを考案した。そしてバーミンガム郊外のヒースフィールドの邸宅で83歳の生涯を閉じた。彼の小さな屋根裏部屋の仕事場は、現在、ロンドン科学博物館に、蒸気機関とともに保存されている。
[山崎俊雄]
『ディッキンソン著、原光雄訳『ジェームズ・ワット』(1941・創元社)』
仕事率、工率、電力および放射束を表す国際単位系(SI)の組立単位であり、固有の名称と記号で表される。記号はW。工率としては、1秒間に1ジュールの仕事をする割合である。電力としては、1アンペアの不変電流によって1秒間に消費される電力をいう。放射束は、ある面を、たとえば1秒間にどれだけのエネルギーが通過していくかという放射量をいう。名称はイギリスの機械技術者ジェームス・ワットにちなむ。
[小泉袈裟勝・今井秀孝 2015年4月17日]
イギリスの技術者。スコットランドの港町グリーノックの生れ。父は船大工で,のちに船具などを商った。父はジェームズに家業を継がせるつもりであったらしく,職人の年季奉公へは出さず自分の仕事場で機械類の製作などを手伝わせた。17歳のとき,母の死と父の仕事上の困難のため一人立ちせざるをえなくなり,機械製造人になるためグラスゴーに出る。しかし,グラスゴーでは適当な親方が見つからず,当時優れた数学機械職人が集まっていたロンドンへいき,1年間だけ親方の下で学んだ。スコットランドへ帰ったワットは,グラスゴー大学の天文器械その他の調整の仕事を請け負い,このとき大学のJ.ブラックらと親交を結ぶ。ワットは市内で仕事場をもとうとしたが,グラスゴー市民でもなく,ギルドからは正規の訓練を経ていないことを理由に反対を受け,当時自治権のあったグラスゴー大学内に大学付属の数学器械製造人として仕事場を設けた。これには経済学者のA.スミスの援助があったといわれている。のちには市内にも店を開設した。
グラスゴー大学の卒業生のJ.ロビソンを通じて,初めて蒸気機関に関心をもち,いくつかの初歩的実験を行った。この仕事が本格化したのは,1763年に大学で使われていたニューコメン機関(大気圧を利用する初期の機関で,鉱山で排水用動力として使用された)の模型を修理してからである。模型が不調だったのは,相対的に蒸気の消費量が増大するためであったが,この仕事の中で,ブラックが独立に発見していた潜熱の存在に気づき,また従来の機関では,一行程ごとにシリンダーに水を注入していったん熱したシリンダーを冷やすため,蒸気の浪費が起こっていることを発見した。この欠陥を克服するため,排気した別の容器へシリンダー内の蒸気を導いて冷やす分離凝縮器(今日の複水器)の着想を65年に得,以後,ブラックおよび科学者で産業家だったJ.ローバックの援助の下で,分離凝縮器付き機関の開発に進んだ。69年に最初の特許をローバックとともにとり,ローバック邸のあるキンネイルで実用化試験に入ったが,実用化への道はけわしく,とくにピストンのパッキングについては,当時の材料と工作技術の水準では困難をきわめた。1766年に大学内の仕事場を閉めていた彼は,機関の開発で生じた負債の返済と安定した収入を得るため69年から運河建設の測量技師として働くが,恐慌によるローバックの破産(1773)と,その直後の妻の死により機関の開発に戻る決意をし,74年にスコットランドを去ってバーミンガムへ向かった。金物工業が発展しつつあったバーミンガムには,ソホーで優れた機械作業場を経営するボールトンMatthew Boulton(1728-1809)がおり,ボールトンは1773年にローバックから特許権を譲り受けていた。ワットはボールトンの援助でキンネイルから運んだ機関の改良に専念し,中ぐり盤を発明したJ.ウィルキンソンが提供した精度のよい鉄製シリンダーを用い,実用化試験に成功を納めた。他方,ボールトンは議会に働きかけ特許権を75年に25年延長させた。同年2人はボールトン・ワット商会を設立,商業生産を開始,1号機はブルームフィールド炭坑へ納められ,2号機はウィルキンソンの工場の送風機用に使われた。77年以降,スズと銅の鉱山のあるコーンウォール地方からの発注が相次ぎ,80年までにこの地方の機関の大半を制した。これらの機関は上下運動のみをするものであったが,ボールトンは回転運動に変換できれば,勃興しつつある製造工場の動力として利用できると判断し,ワットに機関の改良を求めた。ワットは82年に遊星歯車を用いた回転機関の特許をとったが,この中には大気圧利用をやめた複動機関に関するものなどいくつかの重要な内容が含まれていた。回転機関は83年に最初にウィルキンソンの工場へ供給され,次いで88年にアルビオン製粉所に設置された。回転機関の使用料を決める際,機関の能力を馬と比較し,馬力による表示を行った。このほか,調速機,インジケーターなどの考案もある。
塩素漂白を試み,また水は化合物であるという最初の言明を行うなど,化学の分野でも業績を残した。1788年エジンバラ王立協会会員,翌年ロンドンのローヤル・ソサエティ会員となり,1814年技術者として初めてフランス学士院外国会員となった。
執筆者:山崎 正勝
仕事率(工率),電力あるいは放射束の単位で,記号はW。1W=1J/sである。すなわち,1Wは1秒間に1J(ジュール)のエネルギーの割合である。仕事率でいえば,体重50kgの人が3mの高さの階段を3秒間であがったとき,地球の重力の加速度を9.8m/s2とすると,使われたエネルギーは50kg×9.8m/s2×3m=1470Jである。これを3秒間で行ったから,その仕事率は1470J÷3s=490Wである。電力では,500Wの電熱器を100Vの電圧で用いると,500W÷100V=5Aの電流が流れることになる。この電熱器で1kgの水を10分間温めるとすると,すべてのエネルギーが水を温めるのに使われるとして,使われた電力量は500W×600s=300000Jである。0.001kgの水の温度が1℃あがるのに必要なエネルギーを4.19Jとすれば,1kgの水は300000J÷(4.19J×1000)=71.6℃だけ温度があがることになる。放射束について述べると,これは単位時間に考えている面を通過する放射エネルギーのことであるから,仕事率と同様に考えられる。光束が視感度に関係してくるのに対し,放射束は視感度に関係なくWで表すことができる。ワットは国際単位系(SI)の中の固有の名称をもつ組立単位であり,イギリスの機械技術者J.ワットにちなんで単位名がつけられた。仕事率の単位には現在はあまり使用されないようになった馬力という単位がある。定義によって多少の差があるが,1馬力(英馬力)は約746Wである。
執筆者:大井 みさほ
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1736~1819
実用的な蒸気機関の発明者。スコットランドの出身。ロンドンでの職人修行をへて,グラスゴー大学に仕事場を開く。ニューコメンの蒸気機関の模型の修理を委託されたところから,その改良を企て,1774年バーミンガムでボールトンの助力を得て実用化に成功した。81年には回転機関を発明し,蒸気機関の広範な使用を可能にした。
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(今井秀孝 独立行政法人産業技術総合研究所研究顧問 / 2008年)
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…インジェラは,テフという日本のニワホコリ(イネ科)の仲間を原料とし,その練粉を発酵させて薄く焼いたものである。これに肉やレンズマメなどと多様な香辛料を加えてつくったワットとよばれるカレー状の副食をつけて食べる。また,ゲショ(クロウメモドキ科)をホップのように加えてつくるビール(タラ)や蜂蜜ワイン(タジ)といった伝統的なアルコール飲料も発達している。…
…このため全長97kmのうち,人工の運河部分は35kmにすぎない。1773年にJ.ワットが調査を実施し,その後T.テルフォードが1803‐22年と1843‐47年の2期にかけて工事を完成した。最大32mの水位差を29の閘門で克服し,平均深度5.5mで600トンまでの船舶が通行できるが,現在は漁船の利用も減少し,遊覧船が航行するのみである。…
…さらに,水力の得やすい山間僻地にしか工場が設けられないという不便さがあった。工場をこれらの自然的制約から解放し,その能力を十分に発揮させたのはワットの複動式蒸気機関である。綿工業界において最初にこれを備え付けたのはアークライトの紡績工場で,1790年であった。…
…綿業は,紡績部門と織布部門とに大別されるが,両部門の技術革新が跛行的に進行し,互いに刺激を与え合ったことも,その急成長の一因であった。1785年にJ.ワットの蒸気機関が紡績に利用されるようになると,それまでの水力紡績機とは違って,工場の立地や生産の集中に対する制約がなくなり,ランカシャーを中心に,大工場の林立する綿工業都市が多数成立した。 軽工業である綿業の創業資金は比較的少額であったうえ,株式会社こそ法によって禁止されていたものの,〈パートナーシップ〉制などによって負担を分散することができたから,その創業者は社会のほとんどあらゆる階層から出現した。…
…これでは冷却されたシリンダー内にボイラーからの蒸気を送るため,シリンダーの温度を高めるのに多くの蒸気がむだに凝縮される。そこで65年J.ワットはまずこのむだをなくして蒸気の節約をはかるため,蒸気の凝縮をシリンダー外の別の容器,すなわち復水器において行わせるように改良した。しかしこれらの機関はむしろ大気圧を利用するものであって,蒸気の圧力を直接に利用するものではなかった。…
…18世紀後半以来の産業革命が〈鉄と石炭の革命〉と呼ばれるひとつの理由がここにある。他方,J.ワットが改良・普及させた蒸気機関はそれ自体,その先駆となったニューコメン機関以来,主として炭坑を含む鉱山の排水用につくられたものであったが,おもに人力ないし馬に依存していた動力源を,決定的に石炭に転換させる役割を果たし,産業革命の原動力となった。このため,16世紀以来発展しつつあったイギリスの石炭鉱業は,産業革命の進行とともに驚異的な成長を遂げ,イギリスが世界帝国となっていった19世紀にも,鉄道の普及と蒸気船による海上交通の発達によってその需要が激増した。…
…優れた教師として名声を博す。潜熱と比熱の概念を提唱し(1756‐60),J.ワットに影響を与える。結石治療薬の研究中,石灰や炭酸マグネシウムの加熱による重量減少が空気とは異なる気体の放出によることを見いだし,これを固定空気(炭酸ガス)と命名した(1756)。…
…これらは大気圧の蒸気を用いそれが凝縮するとき生ずる真空を利用するという方式であったから,その当時のボイラーは単なる銅製の球形に近い容器で湯をわかしていたにすぎない。J.ワットは,それまでの蒸気機関に大改造を加えほぼ後年の蒸気機関に近いものへ仕立て上げた。すなわち,蒸気機関のシリンダーとは独立に復水器を設ける一方,ボイラーを細長い形状とし構造的に強くかつ伝熱面が広くとれるように改良して,大気圧より高い圧力の蒸気をかなり大量に発生できるようにし,熱効率の改善と大型化への道を開いた。…
…イギリス産業革命期に活躍した世界最初の蒸気機関製造会社。蒸気機関の発明者であるJ.ワットとバーミンガムの金属加工業者ボールトンMatthew Boulton(1728‐1809)との合名会社として1775年設立された。同商会は当初,蒸気機関の設計,設置,コンサルティング業務に専念し,シリンダーをはじめ部品の大部分は外注していた。…
…その発端は1765年に締め金具の製造者ボールトンMatthew Boultonと医師E.ダーウィン(C.ダーウィンの祖父),教育者スモールWilliam Smallがアメリカ人フランクリンとともに催した月例談話会にある。これに陶器業者ウェッジウッド,蒸気機関の開発者ワット,化学工業の開拓者キアJames Keir,馬車の緩衝装置を発明したエッジワースRichard Edgeworth,それに気体化学の先駆者J.プリーストリーが加わり,相互啓発によって多数の新くふうや理論を生みだした。しかし彼らはフランス革命とアメリカ独立を支持し,奴隷解放を力説するなど,革新的政治姿勢を示したため,地元民の反発を買い,プリーストリー邸焼打ちなどの妨害を加えられ,19世紀初頭には自然消滅した。…
…MKS単位系では,仕事の単位は〈力の単位〉×〈長さの単位〉でN・mとなり,これをジュール(J)と呼ぶ。エネルギーの変化率は仕事率と同じくワット(W=J/s)で測られる。エネルギーの単位として原子物理学では電子が1Vの電位差で加速されたとき得るエネルギー,電子ボルト(eV)を用いることが多い。…
…毎秒当りのエネルギーを一般に仕事率というが,電気エネルギーの場合にはこれを電力と呼び単位をワット(記号W)で表す。すなわち1W=1J/sである。…
※「ワット」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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