デジタル大辞泉
「アキノ」の意味・読み・例文・類語
アキノ(Aquino)
(Benigno Servillano ~ Jr.)[1932~1983]フィリピンの政治家。1967年に上院議員に当選。1972年、マルコス大統領の戒厳令下で逮捕・投獄される。1980年から渡米していたが、帰国時にマニラ空港で暗殺された。
(Corazon ~)[1933~2009]フィリピンの政治家。大統領。在任1986~1992。の妻。反マルコスの象徴であった夫の遺志を継ぎ、1986年大統領選挙に出馬し当選。フィリピン初の女性大統領となる。
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アキノ
フィリピンの政治家。タルラック州の名家の出身。1983年8月,夫で野党指導者のベニグノ・アキノ元上院議員が,亡命先から帰国したマニラ空港で暗殺されたことから政界入りした。1986年2月の大統領選に野党統一候補として出馬。マリア・コラソンの名前からコリーと通称され国民的な人気を得た。国民議会は現職のマルコス4選を宣言したが,軍の一部や民衆の反乱によりマルコスは亡命,大統領に就任。ピープルパワー革命といわれた。1992年任期満了で退任。ベニグノ・ノイノイ・アキノ(1960〜)。ベニグノとコラソンを両親に持つ,フィリピンの政治家。1998年,下院議員に当選,3期務めた後,2007年に上院議員に初当選した。2010年5月の大統領選挙に出馬し,対立候補を大差で破り大統領に就任。汚職撲滅,治安の安定化に努め,フィリピンの宿痾といわれた政治の混乱に終止符を打つことに成功しつつある。政治の安定化にともない,国民の高い英語力というポテンシャルが開花し,東南アジア諸国のなかでもっとも遅れていた経済を高成長の軌道に乗せることにも成功している。2014年3月,南部ミンダナオ島の反政府武装勢力モロ・イスラム解放戦線と包括和平合意書に調印,同島で40年以上に渡って続いた武力紛争に終結の見通しをつけた。対外的には南シナ海で軍事的な圧力を強める中国に対して,対決姿勢を鮮明に打ち出している。
→関連項目新人民軍|フィリピン|マラカニアン宮殿|モロ民族解放戦線|ラモス
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アキノ(Corazon Aquino)
あきの
Corazon Aquino
(1933―2009)
フィリピンの政治家。ルソン島中部タルラック州生まれ。1953年アメリカのマウント・セント・ビンセント大学を卒業。1954年生家コハンコ家と同州の経済、政治勢力を二分するアキノ家のベニグノ・アキノと結婚。1972年上院議員の夫が政敵のマルコス大統領によって反逆罪で投獄され、1980年に一家でアメリカに亡命した。1983年夫は帰国しようとマニラ空港に着いたところで暗殺され、これを契機に夫の遺志を継いで政治活動に入る。1986年大統領選挙に立候補し圧倒的な「ピープルズ・パワー」(人民の力)に支持されて当選、マルコスを倒して大統領に就任した。1987年新憲法を実施し、1987年その新憲法下での上下院選挙で圧勝したが、農地改革など根本的な政治改革を果たせず、同政権は7回もクーデターの危機にみまわれた。1992年1期6年で退任。
[編集部]
アキノ(Benigno S. Aquino. Jr.)
あきの
Benigno S. Aquino. Jr.
(1932―1983)
フィリピンの政治家。ルソン島タルラク州出身。1950年アテネオ・デ・マニラ大学を中退し、マニラ・タイムズに入社。1955年政界に進出。タルラク州を経て、1967年上院議員に当選。野党リベラル党幹事長として1971年中間選挙で同党の大躍進を実現した。1973年の大統領選挙ではマルコス大統領の強敵とみられていたが、1972年戒厳令発布と同時に逮捕され、1977年11月軍事法廷で死刑を宣せられた。1980年5月心臓病手術の名目で出獄、渡米を許され、アメリカでマルコス独裁反対運動を続けたが、1983年8月21日帰国直後マニラ空港で暗殺された。その後、妻のコラソン(1933―2009)が反マルコスの象徴的存在となり、1985年末からの大統領選挙に出馬、1986年2月政権を獲得した。
[池端雪浦]
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アキノ
Aquino, Benigno S., Jr.
[生]1932.11.27. タルラク
[没]1983.8.21. マニラ
フィリピンの政治家。上院議員の家に生まれ,17歳で『マニラ・タイムズ』の特派員として朝鮮戦争を取材。 1959年郷里タルラク州副知事,1963年同知事に当選。 1967年上院議員。戒厳令施行まではフェルディナンド・E.マルコスの最大の政敵とみなされ,野党,自由党の幹事長として 1973年 11月の大統領選挙にそなえていたが,1972年9月の戒厳令で逮捕され,殺人,政府転覆活動,武器不法所持などの罪状で起訴。 1977年 11月軍事法廷により銃殺刑を宣告され内外に大きなショックを与えた。 1978年3月の総選挙には獄中から立候補。 1980年5月,心臓病治療のため釈放され渡米,亡命生活を送ったが,1983年帰国の際にマニラ空港で暗殺された (→アキノ暗殺事件 ) 。夫人のコラソン・C.アキノはこれを機に政界に入り,1986~92年大統領。
アキノ
Aquino, Corazon
[生]1933.1.25. タルラク
[没]2009.8.1. マカティ
フィリピンの政治家。フィリピン初の女性大統領(在任 1986~92)。フルネーム Maria Corazon Aquino。名門財閥コファンコ家に生まれた。アメリカ合衆国に留学し,1954年ニューヨークのマウント・セントビンセント・カレッジを卒業,翌 1955年にベニグノ・S.アキノと結婚。1983年8月にベニグノが暗殺されると遺志を継いで政界入りした(→アキノ暗殺事件)。1986年の大統領選挙に,4選をねらうフェルディナンド・E.マルコスに対抗して野党連合から出馬。不正や暴力が相次ぐなかマルコスが勝利を宣言したが,国民のみならず軍部側近も離反,マルコスは亡命を余儀なくされ,代わって大統領に就任した。就任後,たびたびクーデター未遂事件が発生して政権は不安定だったが,1992年6月に任期をまっとうした。
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アキノ(コラソン)
Corazon Aquino
1933〜
元フィリピン大統領
夫ベニグノの暗殺を機に政治活動を始めた。1986年2月の大統領選挙において野党の統一候補となり,黄色をシンボル・カラーとした選挙運動を展開した。選挙はマルコス大統領の勝利とされたが,不正選挙だとする世論を味方とし,エンリレ,ラモスらの国軍幹部による2月革命などの政情不安の中,マルコスはハワイへ亡命し,コラソンが大統領に就任した。1987年に新憲法が施行され,議会選挙も行われた。前政権の累積債務や,軍内部の反対勢力,共産ゲリラ新人民軍などの諸問題に対し,十分な成果をあげるまでにはいたらず,1992年大統領はラモスにひき継がれた。
アキノ(ベニグノ)
Benigno Aquino Jr.
1932〜83
フィリピンの政治家
州知事をへて上院議員となった。野党リベラル党の中心的なメンバーで,反逆罪で1972年から80年まで投獄。一時病気治療のため出国,大統領選挙に立候補するため1983年にマニラにもどるが,8月21日に飛行場で暗殺された。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
アキノ
Corazon C. Aquino
1933~2009
独立後7代目のフィリピン共和国大統領(在任1986~92)。フィリピン有数の大土地所有者コファンコ家に生まれ,1954年少壮の政治家ベニグノ・アキノと結婚。マルコスの最大のライバルであった夫に従ってアメリカに亡命するまで,ふつうの主婦であった。ベニグノ暗殺(83年)後,反マルコス陣営結束のシンボル的存在となり,86年の「ピープル・パワー(エドサ)革命」により,大統領に就任。在任中,制度的民主主義の回復に努めた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報