西アフリカのガーナ共和国の首都。人口185万(2002)。17世紀にデンマークのとりでが建設され,1850年にイギリスがそれを買収,76年からイギリス領ゴールド・コーストの主都となった。その後西アフリカにおけるヨーロッパ文化の中心となり,19世紀末からのアフリカ人民族運動の発祥地でもあった。1928年には黄熱病の研究に来ていた野口英世がここで病没した。ギニア湾に面しているが,比較的涼しい乾燥地で,国際都市として発展した。第2次世界大戦後ガーナ大学がイギリスによって開設されたが,イギリス留学から帰国したエンクルマが,48年,ヨーロッパ人の操作した物価高に抗議して蜂起したアフリカ人の抗議運動を契機に,パン・アフリカニズムによる解放運動を組織した。1923年にココアや鉱産物を産出する内陸に通ずる鉄道が開通したが,アクラの港は遠浅で大型船舶の接岸ができず,商工業の発達が阻害されていた。エンクルマの計画による東方郊外の近代的なテーマ港が61年に完成し,ボルタ川にダムを建設してつくった水力発電所の電力によるアルミナ工場などの工業地帯がテーマに開発された。1957年のガーナ独立によりその首都となったアクラでは各種の全アフリカ的な国際会議が開かれ,アフリカの政治と学術・文化の中心となるに至った。しかし,66年2月のクーデタでエンクルマ大統領が失脚し,市民が彼の銅像を倒した時に,アフリカの政治と文化の中枢としてのアクラの役割は終わった。その後の軍政とたび重なるクーデタのために,政治不安と社会的混乱が強まり,またガーナ経済の停滞によるアクラの地位の低下と相まって,1960年頃のこの都市がもっていた魅力は失われてしまった。アクラの地名は16世紀に東方から来たガー族を,原住民アカン族がヌクランnkran(黒アリ)と呼んだのを,白人が転訛したものという。
執筆者:西野 照太郎
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西アフリカ、ガーナの首都。同国の行政、商工業、交通、文化の中心地である。人口155万1200(2001推計)。ギニア湾に面し、海岸段丘とそれに挟まれた低地にまたがり、市内にはオダウ川が砂州でせき止められたコーレ潟湖がある。1482年この地域にポルトガル人が初めて渡来したときは、ガGaとよばれる民族集団が住む漁村であった。その後、イギリス人、オランダ人、デンマーク人などによる貿易基地(城塞(じょうさい))が海岸地帯に建設され、ヨーロッパとの商取引が盛んになり、現在のアクラの中核となる集落が形成された。アクラという地名は、アカン語のンクランnkran(黒アリの意)がなまったものといわれている。しばしば地震にみまわれ、とくに1862年に市のほとんどが壊滅した記録がある。1887年イギリス領ゴールド・コーストの首都となり、行政、商業の中心地として発展した。また、グッギスバーグ総督による十か年計画(1920~1930)によって組織的な都市計画が進められ、道路、水道などの基礎的社会施設や学校、病院など教育、保健施設が整備された。1921年の人口は約3万8000人であったが、1931年に6万1000人、1948年には13万6000人と、社会、経済的発展とともに急増した。1969年にガーナ政府が外国人追放政策をとる前には、現地のガは住民の約40%で、移住民のアカン、エベやナイジェリア人、トーゴ人などの外国人が多かった。
国内の鉄道および道路網の起点で、北東12キロメートルにガーナ国際空港がある。東方29キロメートルにある外港テマとの間には高速道路が通じる。ガーナ大学をはじめ教育施設、各種の文化施設も充実しており、1928年黄熱病(おうねつびょう)研究中にこの地で死んだ野口英世(ひでよ)の記念像がある。
[中村弘光]
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西アフリカ,ガーナの首都。1576年ポルトガル人が要塞を築いたのち,デンマーク領をへて,1850年イギリスが買い取る。以降,ヨーロッパ文化が移入された。20世紀初頭のアフリカ人民族運動の発祥地でもある。野口英世の没地。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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