アバ朝(読み)アバちょう(英語表記)Ava

改訂新版 世界大百科事典 「アバ朝」の意味・わかりやすい解説

アバ朝 (アバちょう)
Ava

ビルマ語でアワAwaまたはインワInwaとよばれるシャン族王朝。1287-1555年。タウングー朝の後身ニャウンヤンNyaungyan朝(1605-1752)を指すこともある。パガン王統を廃絶させたシャン族首長3人は,元の大徳年間(1297-1307)の侵入を退けた後,1312年にピンヤ,15年にサガインに王城を築き,2系列の王統を樹立した。両王朝ともその支配地域はイラワジ川流域の中部ビルマに限られたが,北方ではマオ・シャン,モーニン・シャンなどの部族が割拠し,南部ではモン族のハンターワディー王朝が安定した勢力をもっていた。ピンヤ,サガインの両王統が相互に暗殺を繰り返し,ついにマオ・シャン族の干渉を被って崩壊すると,サガイン王統の流れを汲むタドーミンビャーThadominbyaが分散したシャン族の勢力を結集,64年ミツゲー川とイラワジ川の合流点に王城を構築した。これがラタナプーラの雅称で19世紀後半までビルマ(現,ミャンマー)の代名詞として国外にも知られたアバ(アワ)である。アバ朝の歴代国王は,14世紀から15世紀にかけてビルマ南部のモン族と戦闘を繰り返した。中でもモン王ラーザダリとアバ王ミンチーソワソーケおよびその子ミンカウンとの間で展開された1世紀にもわたる戦争は,おそらく民族移動に起因するものであったとみられる。しかしアバ朝の覇権は,15世紀以降になるとほとんど名目だけとなり,急速に台頭してきたタウングー朝のビルマ人によって,1555年に倒された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アバ朝」の意味・わかりやすい解説

アバ朝
あばちょう
Ava

中央ビルマ(現ミャンマー)、イラワジ川の河畔アバの地に、シャン人の血を引くタドーミンビャーによって建てられた王朝(1364~1555)。次のミン・チーズワソーケー王(在位1368~1400)の時代、上ビルマ地方一帯は概してよく統治されていた。しかし、北からのマオ・シャン人、南からのモン人の侵寇(しんこう)に加え、地方のミョウ(城市)もしばしば反乱を起こし、16世紀に入ると騒乱状態に陥った。ミョウは地方行政の単位であり経済的にも独立体としての機能をもっていた。ミョウは中央から派遣された王族によって統治されたが、彼らは土着化し互いに割拠して自ら王(ミン)と称した。またこの王朝下ではアティーAthiとよばれる平民階層が形成され、社会構成のうえにも大きな変化がおこった。宗教面では、肉食、飲酒を認め、農地の開発に積極的に従事したマハーカサッパ教団が繁栄。1555年、南に拠(よ)ったタウングー朝のバインナウン王によってアバが落とされ、アバ朝は滅んだ。

[伊東利勝]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アバ朝」の意味・わかりやすい解説

アバ朝
アバちょう
Ava; Awa

北ビルマの王朝 (1364~1555) 。阿瓦とも音写される。シャン族のタドミンビャ王 (在位 1364~68) が北ビルマのシャン諸族を征服し,アバを都として 1364年建国した。アバ朝は肥沃な南ビルマ稲作地帯を征服しようとしてペグーモン族と戦争を繰返し,他方 15世紀中頃に中国軍の侵入を受け,明朝の朝貢国となった。 16世紀前半にシャン諸族の内乱により王朝は衰え,ポルトガル兵力と友好的関係にある南ビルマのタウングー朝によって 1555年滅ぼされた。

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