民族移動 (みんぞくいどう)
民族の一部あるいは全体がそれまでの居住地から他の居住地へ永続的に移動する現象をさす。散発的・一時的な移動で,新しい故郷の建設を意味しない単なる旅行とも,寄食放浪の生活とも,またふつう一定領域内を採集狩猟のために移動していく行動や,家畜群を放牧する活動とも異なった人間の移動の一形式である。民族移動としては,4~6世紀のゲルマン諸族の大移動が有名であるが,民族移動と呼ぶべき現象は,先史時代から現代に至るまで,繰り返し行われてきた。
民族移動は,理論的には自発的移動と強制移動とに区別できるが,実際においては両者の間に明瞭な境界線を引くことはむずかしいことが多い。また民族移動というと,大集団が怒濤のように押し寄せるという通俗的イメージがあるが,実際には,このような形での移動はまれで,小規模な移動が積み重なって,結果として民族移動となることが多い。たとえば東南アジアにおいては,民族移動とか大量移住と呼ばれるものの実態は,部族の指導者とその宮廷,小軍隊が移住してきて,彼らの言語と文化が周囲の住民のところにも広がってゆき,いつの間にか先住民が来住者に圧倒されるようになったり,来住者の言語を採用するようになる過程であって,タイ系諸民族の移動もこのようなものであった蓋然性が高い。
民族移動が生ずる原因としては,自然環境の変化,人口圧,社会的・歴史的原因,ことに他民族との関係などがある。S.ヘディンが報じた,ロブ・ノール湖の位置変動により移住を余儀なくされたロプリク族の移動は,自然環境の変化による移動の一例である。社会的原因としてはしばしば宗教が重要で,ユダヤ人の離散もその例である。ブラジルのトゥピ諸族は,汚れなき国を求めるメシア運動によって,15世紀に内陸からバイア海岸に向けて,いくつもの移動の波となって押し寄せた。
ところで,具体的な民族移動は必ず一定の歴史的状況のもとで行われる。古代ギリシアのヘロドトスの《歴史》は,内陸ユーラシアの民族移動を記して,アリマスポイ族によってイッセドネス族が追われ,イッセドネス族によってスキタイ族が追われ,スキタイ族によってキンメリア族がその故土から追い出されたと述べており,いわば民族移動のドミノ理論の原型を示している。このような他民族の圧迫によって生じた民族移動の例と考えられるもののなかには,検討を必要とするものもある。たとえば,1253年,元のフビライが中国南西部の雲南にあった大理王国を滅ぼしたため,同王国を構成していたタイ族が南下を始め,インドシナに発展したという説もその一つである。中国南部からインドシナへのタイ系諸族の南下は,それよりもはるか前から進行中であったし,また大理王国においてタイ系住民が占めた地位を過大に評価することもできないからである。
民族移動において,その経路や移住先の選択決定に当たっては,生態学的な条件が重要であることが多い。たとえば水稲耕作を営むタイ系諸族は河谷づたいに,焼畑耕作を営むヤオ族やミヤオ(苗)族は山地を通って中国南部からインドシナ半島に移住してきた。また,これと関連して特定の技術(ことに交通手段や農耕における)をもつことによって,民族移動が促進され,あるいはそもそも可能となった例もある。タイ系諸族における水稲耕作もその一例であるが,アフリカではバントゥー語族が大拡大を遂げるに当たって,栽培植物としてのバナナ,それに鉄器の導入が決定的な役割を演じたと考えられる。また太平洋に関しては,オセアニアの島嶼世界にアウストロネシア語族が移動拡大できたのは,浮木つきの舟による航海技術と,ヤムイモ,タロイモ,ココヤシ,豚,犬,鶏といった東南アジア系の栽培植物や家畜を持参したからであった。シベリアにおけるツングース諸族の拡大も,トナカイの飼育によって交通運搬手段が改善された結果であろう。民族移動に関する要因としては,そのほか社会的なものや,宗教的ないし観念的なものがある。社会的なものとしては,たとえばタイ系諸族の場合,いわゆる〈封建制〉が,彼らが拡大し,また弱小民族を支配吸収するメカニズムとして重要であったし,また,内陸ユーラシアの初期遊牧民のところでは,青年戦士集団が,その拡大を促進したと考えられる。
民族移動という現象があり,その結果,離れた地域において同じような文化が存在するようになるという事実があることは疑いない。ボルガ下流とドン下流の中間のカルムイク族の文化が,はるか東方のモンゴル諸族と共通しているのは,17世紀におけるカルムイク族の大移動の結果である。しかし,すべての文化の類似や一致を民族移動で説明するわけにはいかない。文化拡散のメカニズムとしての民族移動を過大評価することはできない。
→民族大移動
執筆者:大林 太良
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
民族移動
みんぞくいどう
ある民族が、従来の居住地を離れ、別の地域に移住すること。それは、個別的、散発的なものではなく、一時的でない。また、牧畜民などにみられる領域内の定期的移動も含まれない。歴史上、民族移動のもっとも有名な例は、4世紀末から6世紀初頭にかけてのゲルマン諸集団の「民族大移動」がある。それは、フンの西進に触発されたものであるように、しばしば、一民族の移動は他民族の移動を引き起こすことがある。
中国の漢民族の華南への移住は、北方の遊牧民の政治的、軍事的圧迫が大きな要因であり、他方、漢民族の圧力は、華南のタイ系諸族などの南下の一因となっている。こうした場合、一つの歴史的事件が移動の契機となるが、実際には、その前後に数多くの小規模な移住の積み重ねられていることが多い。タイ系諸族の東南アジアへの進出はその一例であり、河谷平野沿いに水稲耕作の技術をもってしだいに南下していったと思われる。その原因としては、よりよい耕作適地を求めることや、母村の人口圧、紛争、また近隣諸集団との関係などさまざまあげられる。民族移動は一般に強制的と自発的に分けて考えられるが、実際には両方の要因の複雑に関係することがみられる。強制的移動の典型的な例は、戦争や征服の結果、移住させられるもので、アメリカ大陸への黒人の奴隷としての移動、先住民政策によるアメリカ・インディアンの強制的移住などもその例である。16世紀に南アメリカで起こったトゥピ諸族の移動は、理想郷を求めるという宗教的動機に基づいている。それは、ある意味で自発的であるが、同時にポルトガル人の進出を背景としている。
民族移動は、こうした社会的、歴史的要因ばかりでなく、自然環境も大いに関係する。それは、移動への契機になるとともに、移動を可能にさせる条件でもある。紀元前四千年紀ころから進んだサハラ北方の乾燥化は、かつてこの地方に住んでいた人々を南へと押しやった。一方、氷河期による海面下降の結果、およそ3万年以上前に、ベーリング海峡にできた陸橋を越えて移住が行われた。オーストラリア大陸への移動の年代については明らかでない点があるが、やはり陸地の拡大という条件は無視できない。しかし、その後、太平洋の島々に移住していったポリネシアの人々などは、アウトリガー付きカヌーによる航海技術が大きな要因となっている。彼らは、前4000年ころを始まりとして東南アジアから移動し、紀元後数世紀に東端の島に達したものとされる。彼らの拡大は、航海技術とともに、根栽農耕や家畜飼育をこの地域にもたらした。このように、ある文化要素が民族移動の契機になるとともに、それによって文化の諸要素が担い手とともに移動させられる。しかし、民族移動の結果、特定の文化要素の失われることもみられる。ポリネシアの人々は、移動の初期において土器をもっていたが、島嶼(とうしょ)環境や代用品となるココヤシの殻のため、土器を喪失していった。
[田村克己]
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民族移動(みんぞくいどう)
世界の歴史においては,部族や民族が大挙して移動し,巨大な社会的変動をもたらす例が数多くみられる。ヨーロッパでは,4~6世紀に生じた「ゲルマン人の大移動」がよく知られている。375年,北東アジアから黒海の北に入り込んでいたフン族が東ゴート族の国を征服すると,西ゴート族はドナウ川を越えてローマ帝国領内へ移動し,バルカン,イタリア,南フランスをへてイベリア半島に落ち着いた。その影響を受けて,他の多くのゲルマン部族も移動を開始し,西ローマ帝国内には,西ゴート王国,ヴァンダル王国,ブルグント王国,フランク王国,東ゴート王国,ランゴバルド王国などのゲルマン人諸国家が建てられた。この大きな動きのなかで,西ローマ帝国が滅び,西ヨーロッパはゲルマン的要素を強く帯びることになったのである。一方,アラブ人はイスラーム以前の時代からシリア,イラクへの移住を開始していたが,7世紀初めにイスラームが興ると,アラブ・ムスリムは家族を伴って征服戦争に参加し,イラク,イラン,シリア,エジプト,北アフリカへと進出した。9世紀半ば頃,モンゴル高原から南下したトルコ系のウイグルはクルグズや西夏に敗れて四散し,また同じトルコ系のオグズは,西方に移住してイスラーム化した後,セルジューク朝を興し,さらにオスマン帝国を建設した。また,中央ユーラシアの草原地帯では,民族(主に遊牧諸部族)移動の波は常に東から西へという方向だった。その遠因をユーラシア東部における気候の悪化に求める説もあるが,実証するのは難しい。直接的な原因としては,他部族に攻められてやむをえず移動する場合と,征服活動の一環として移動する場合がある。前者はスキタイのように玉突き現象を引き起こし,後者はモンゴルのように雪ダルマ式に一挙に大帝国を出現させることがある。フンの移動は,当初は雪ダルマ式拡大であったが,その後玉突き的移動を引き起こすことになった。西から東へ拡大した唯一にして最後の例は,ロシア人である。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の民族移動の言及
【舟∥船】より
…その影響はとくに,1~2世紀ころ東南アジア各地に成立したいくつかの国家における思想,制度,農業技術,土木技術などにきわめて強くあらわれている。
[民族移動と船]
太平洋の島々への[民族移動]もまた,船と航海術の発達と深くかかわっている。なかでも前3000年~前2500年ころに始まったアウストロネシア語系の人々の移動は重要である。…
※「民族移動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」