アフリカ民族会議(読み)アフリカミンゾクカイギ(英語表記)African National Congress; ANC

デジタル大辞泉 「アフリカ民族会議」の意味・読み・例文・類語

アフリカ‐みんぞくかいぎ〔‐ミンゾククワイギ〕【アフリカ民族会議】

African National Congress南アフリカ共和国の政党。前身は1912年に結成された黒人解放運動組織南アフリカ先住民民族会議(SANNC)。1923年に現呼称に改称。アパルトヘイト反対の中心的な組織として活動。1990年に合法化され、アパルトヘイト撤廃後の1994年に行われた初の全人種参加総選挙で勝利し、議長のネルソン=マンデラ大統領就任した。ANC

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アフリカ民族会議」の意味・わかりやすい解説

アフリカ民族会議
あふりかみんぞくかいぎ
African National Congress

略称ANC。南アフリカ共和国における黒人の民族運動組織・政党。1910年の南アフリカ連邦結成直後、政府が原住民指定地制度を導入した原住民土地法案に反対して、1912年ヨハネスバーグの黒人を中心に南アフリカ原住民民族会議(1923年にアフリカ民族会議と改称)が結成され、委員長にデューベ、書記長にプラーキが選ばれた。その目標は反人種主義の立場から黒人の権利を擁護することにあったが、その手段は請願、代表派遣、プロパガンダなどの合法的なものであり、ガンディーの非暴力主義の影響を強く受けていた。第二次世界大戦中、ANC内の青年層が穏健な手段に反対して分裂し、1943年青年同盟を結成、タンボ、シスルWalter Sisulu(1912―2003)、マンデラらも加わった。そして第二次世界大戦終了後の1948年国民党政権が成立し、アパルトヘイト政策を強化すると、ANCもそれに対抗して武力闘争路線を採択し、1952年の抗議キャンペーン、1955年の自由憲章の採択など幅広い抗議行動を行ったが、そのため多くの指導者が捕らえられた。1959年にはANC内過激派が分離してパン・アフリカニスト会議(汎(はん)アフリカ人会議、PAC、議長ソブクウェ)を結成、翌1960年3月にはPACのデモに白人警官隊が無差別発砲し、多くの死傷者を出すシャープビル事件が起こった。この事件直後ANC、PACともに非合法化され、それぞれ海外に活動の本部を移し、国外から反人種主義運動を行った。1970年代後半から都市部を巻き込んだゲリラ活動を展開した。1990年2月に非合法化が解除され、以来、現実路線に転じ、白人政府との交渉の主体となった。1994年4月の全人種参加の総選挙では有効投票の62.6%(400議席のうち252議席)を獲得して第一党となり、政権を担当、5月に議長のマンデラが大統領に就任した。1995年11月の統一地方選挙でも圧勝。その後、マンデラは1997年末でANCの議長職を退き、後任党首にはターボ・ムベキThabo Mbeki(1942― )が就任。1999年6月の第2回総選挙でも、ANCは得票率66.35%を獲得、第一党となり、ムベキが大統領に就任した。

[林 晃史・奥野保男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アフリカ民族会議」の意味・わかりやすい解説

アフリカ民族会議
アフリカみんぞくかいぎ
African National Congress; ANC

1912年に設立された南アフリカ共和国の民族主義組織,のち政党。ケープナタールなどのアフリカ人やカラード (混血) の組織を母体として,ブルームフォンテーンで設立。当初は南アフリカ先住民民族会議 SANNCと称したが,1923年名称変更。初代総裁はナタール先住民会議の指導者ジョン・L.デュベ,初代書記長はケープのカラード組織の指導者ソル・プラアジェ。アフリカ人に白人と同等の市民権を獲得させることをおもな目標としたが,その枠内にとどまらず,非白人全体の権利拡張のためにインド人会議などと共闘することもあった。しかし概して過激な運動方針はとらず,ガンジー主義の影響による消極的抵抗運動を展開した。 1948年の国民党政権成立を契機にアパルトヘイト体制が強化されていくなかで,1949年 ANC青年連盟がかねて主張していた積極行動綱領を採択する。 1952年アルバート・ルスリが総裁に就任し,活動はさらに活発になったが,政府の弾圧もいっそう厳しくなり,成果も上がらず,失望したロバート・M.ソブクウェら過激派は 1959年に脱退しパン・アフリカニスト会議 PACを組織した。しかし翌 1960年3月のシャープビル虐殺事件を契機に,PACとともに非合法化された。 ANCの活動は 1970年代後半からしだいに過激化し,石炭液化会社 (SASOL) 爆破事件 (1980) ,空軍本部ビル爆破事件 (1983) などの破壊活動が目立つようになった。さらに 1984年の人種別三院制新憲法施行前後から国内の反アパルトヘイト運動が強まり,ANCの影響力も増大した。 1989年デクラーク政権が誕生すると 1990年に非合法措置が解除され,1991年人種隔離基幹諸法の全廃により,アパルトヘイトの消滅を迎えた。その後は「黒人の参政権を前提とした多数支配」のための新憲法制定を模索するデクラーク政権と対話・交渉を続け,1993年全人種平等などをうたった暫定憲法を成立させた。 1994年4月に行なわれた制憲議会選挙で第一党となり,議長のネルソン・マンデラが南ア初の黒人大統領となった。翌5月,マンデラ大統領はフレデリク・ウィレム・デクラーク前大統領とターボ・ムベキ ANC副議長を副大統領に任命,さらに国民党とインカタ自由党にも閣僚ポストを配分して大連立政権を発足させた。 1996年人種間の平等などを含む新憲法を採択して民族共生への第一歩を踏み出した。 1997年の第 50回党大会でマンデラ大統領は党議長を勇退し,後任にはムベキ副議長が就任した。 1999年ムベキは第2代大統領となった。

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知恵蔵 「アフリカ民族会議」の解説

アフリカ民族会議

1912年、アフリカ人都市知識層を中心に結成。非暴力主義に基づくアフリカ人の権利擁護を目的とし、初期には請願・陳情などの手段によった。第2次大戦中、穏健な手段に不満な若手グループが「青年同盟」を設立。48年のマラン政権成立以後、アパルトヘイトが強化されると、ANCは52年に不服従運動を実施、55年には「自由憲章」を採択した。60年にシャープビル事件により非合法化され、61年、ウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍)というゲリラ組織が誕生。62年にはネルソン・マンデラ議長が逮捕された。69年、武力闘争を宣言。デクラーク政権の対話路線により、90年2月、ANCはパンアフリカニスト会議(PAC)と共に合法化され、マンデラは釈放されて副議長に就任した。91年7月の全国大会で新議長にマンデラが就任、12月と翌92年5月の民主南ア会議に臨んだ。93年の多党交渉フォーラムを経て、94年4月の制憲議会選挙で第1党となり、5月マンデラ新政権が誕生した。96年、マンデラ党首は議長引退を表明、97年12月の党大会でターボ・ムベキが新議長に選ばれた。99年6月の第2回総選挙で第1位を維持し、ムベキ政権が発足した。2004年4月の第3回総選挙後に再任。05年、ムベキ大統領はズマ副大統領を収賄およびレイプ容疑で罷免したことから、党内対立が顕在化した。

(林晃史 敬愛大学教授 / 2007年)

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旺文社世界史事典 三訂版 「アフリカ民族会議」の解説

アフリカ民族会議
アフリカみんぞくかいぎ
African National Congress

人種差別撤廃をめざす南アフリカ最大の黒人民族運動組織。略称ANC
1912年に結成。非暴力・不服従闘争を展開し,南アフリカ共和国・南ローデシアの白人政権に抵抗した。1960年に非合法化され,亡命者はタンザニア・ザンビアを基地としてゲリラ闘争に転じた。その後,南アフリカの黒人解放闘争の組織としては,ANCの国内派・国外派のほか,ジンバブエ人民同盟(ZAPU)とジンバブエ民族同盟(ZANU)などが,主導権を争いながら白人政権に対して激しい闘争を進めた。1980年のジンバブエ独立後,90年には南アフリカ共和国での組織も合法化され,同時に27年間投獄されていた議長ネルソン=マンデラが釈放されて,91年にアパルトヘイト諸法の撤廃に成功した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アフリカ民族会議」の解説

アフリカ民族会議(アフリカみんぞくかいぎ)

アフリカ人民族会議(ANC)

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世界大百科事典(旧版)内のアフリカ民族会議の言及

【アフリカ人民族会議】より

…略称ANC。アフリカ民族会議とも訳される。1912年,原住民土地法案に反対して弁護士P.I.セメの呼びかけにより結成された南アフリカ原住民民族会議が23年に改称したもの。…

※「アフリカ民族会議」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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