改訂新版 世界大百科事典 「アブドゥルラーマン」の意味・わかりやすい解説
アブドゥル・ラーマン
`Abd al-Rahmān
生没年:?-1246
モンゴル帝国第2代太宗朝に東来し,賄賂によりトゥラキナ皇后の寵任をえて税務長官にまでいたったイスラム商人。中国文献には奥都剌合蛮の字面をもって記載されている。初め彼は訳史(翻訳官)安天合を介してウイグル人宰相チンハイ(鎮海)に接近し,華北属領に対する銀納税(商税,専売税)110万両の倍額という条件で課税請負の権利を手に入れ,1240年(太宗12)提領諸路課税所官に就任,引き続き太宗に次ぐ皇后監国時代にあっても税務を主宰した。彼が提唱した七両包銀制はそのままのかたちでこそは施行されなかったけれども,第4代憲宗朝にはじまる包銀税の端緒となった。皇后監国が終わって第3代定宗が即位した46年,彼は収賄の旧悪によって刑死する。モンゴル朝から元朝初期にわたって,銀本位経済の中に育った色目人が帝国の財務長官を独占した結果,オルタック(斡脱)銀・包銀制・銀鈔・金銀交易の国営など中国の伝統になじまない経済制度が続出するが,アブドゥル・ラーマンは実にその初期の代表的当事者の一人である。
執筆者:愛宕 松男
アブドゥル・ラーマン
Abdul Raḥman
生没年:1903-90
マレーシアの政治家。マレー半島中部ケダの王家に生まれ,父はケダのスルタンであった。1919年イギリスに留学,ケンブリッジ大学に学び,同時にマレー人学生協会の指導者となった。帰国後サハバット・ペナ(ペン・フレンド)という民族主義団体のケダ支部長となった。第2次世界大戦後再びイギリスに留学して弁護士の資格を取り,51年には連合マレー人国民組織(UMNO)総裁となり,マレーシア民族運動の指導者となった。彼の政治路線はイギリスとの協調によって話合いに基づく独立の獲得であった。55年7月の第1回マラヤ総選挙の結果,首席大臣となり,イギリスと交渉を進め,57年にマラヤ連邦が完全独立した。この後,首相としてマレーシア連邦の結成(1963),同連邦からのシンガポールの脱退(1965)問題の収拾などを終始指導し,70年9月に首相職を辞したが,建国の父としての尊敬を集める一方,サウジアラビアのジュッダに本部をもつ国際機構であるイスラム諸国会議常設書記局の初代書記局長に就任した。
執筆者:生田 滋
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報