日本大百科全書(ニッポニカ) 「人種暴動」の意味・わかりやすい解説
人種暴動
じんしゅぼうどう
Race Riot
人種間対立という形をとって現れる暴動。とくにアメリカ合衆国において起こった暴動は、しばしば誤って黒人暴動ともいわれるが、通俗的に理解されるように、黒人が引き起こした暴動ではなく、ほとんど例外なく白人側からの挑発、攻撃から起こっている点に留意する必要がある。リンチが、多くは小さな田舎(いなか)の町村で起こったのに比べ、人種暴動は通常、比較的大きな都市や町、とりわけ第二次世界大戦以降では大都市において起こっている。またリンチは、ある個人または黒人の小集団に対して、彼らが罪を犯したとして行われたのに比べ、人種暴動は、多くの場合、労働市場における競争、住宅問題、公園や海岸の利用、白人による不当な扱いに対する抗議等々の問題をめぐって引き起こされている。このように、人種暴動は本来、階級的対立に起因するが、現象的には人種間対立という形をとっている点に特徴がある。
歴史的には、第一次世界大戦以前のアメリカの人種暴動はほとんど南部で起こり、黒人側からの反撃はあまりなく、単発的、一時的なものに終わっている。しかし、黒人が南部から北部へ大量に移住し、都市化し始める第一次世界大戦期以降は、北部においても同時多発的に起こるようになり、しかも黒人たちは戦争中宣伝された民主主義の息吹を吸収し、自尊心や黒人の自立と団結を意識し、圧迫者に対する抵抗の姿勢を示すようになっている。1919年の夏は「赤い血の夏」とよばれ、一連の人種暴動が起こり、同年末までに25件に達した。この間の最大の暴動は13日間続いたシカゴの暴動で、白人13人、黒人23人が殺され、537人の負傷者の大半は黒人であった。暴動に略奪が加わるのは1929年の大恐慌下、35年のハーレムの人種暴動からと思われる。後者のときは3人の黒人が殺され、200軒の店が破壊され、損害は200万ドルを超えた。第二次世界大戦後、1965~68年にかけての「長く暑い夏」には、ロサンゼルスのワッツ地区をはじめとして、合衆国のほとんどの大都市のゲットーで人種暴動が起こり、68年4月のキング牧師暗殺を契機にふたたび29州125市に広がった。近年では1992年に白人警官による黒人男性への暴行(ロドニー・キング投打事件)が無罪になったのをきっかけに、ロサンゼルスで大規模な暴動が起きた。
[竹中興慈]