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華僑 かきょうhua-qiao; Overseas Chinese

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

華僑
かきょう
hua-qiao; Overseas Chinese

海外に移住した中国人およびその子孫。華とは本籍地を離れて異国を流浪する華人の意。世界の華僑人口はつかみにくいが 2000万近いといわれ,その約 80%が東南アジアに居住している。華僑には福建,広東両省の出身者が最も多いが,彼らは現地で血縁または地縁による集団的社会を結成し,本国への送金ばかりでなく,本国の革命運動や社会運動にも協力している。華僑の起源は中国人の海外進出の歴史とともに,古くは漢代にまでさかのぼる。宋・元代の海外貿易の発展により,南洋方面に移住する中国人が現れて唐人と呼ばれた。明・清代には海禁政策がとられて中国人の海外出航は厳禁されたが,沿海地住民の生活難や貿易の利潤を求めての密航者があとを絶たず,帰国すれば法禁に触れるのでそのまま現地にとどまるか,あるいは海寇として活動の拠点を現地におく者が多くなった。明末清初の動乱はこれに拍車をかけた。 19世紀には植民地開発に必要な労働力として,クーリー貿易による中国人の海外移住が目立ち,南北アメリカやオーストラリアなどの金鉱の開発や鉄道敷設工事に奴隷的に使われた。咸豊 10 (1860) 年に中国開国に伴って正式に中国人の海外渡航が認められてから,自由移民の進出が一層著しくなった。そのため宣統1 (1909) 年以後は国籍法が制定され,華僑は本国籍を失わない者とされるとともに,その保護政策がとられた。

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デジタル大辞泉の解説

か‐きょう〔クワケウ〕【華×僑】

《「華」は中国、「僑」は仮住まいの意》中国国籍を保持したままで、海外に移住した中国人およびその子孫。東南アジアに多く住み、経済的影響力をもっている。→華人
[補説]中国で1978年から実施された改革開放政策を基準として、改革開放以前に渡航した者とその子孫を老華僑、それ以降に渡航した者を新華僑と呼ぶ。

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百科事典マイペディアの解説

華僑【かきょう】

中国,台湾,香港,マカオを除く場所に居住する中国人のこと。〈僑〉は仮住まいの意味。中国国籍をもつ者を華僑,現地国籍をもつ者を華人と呼ぶ。漢民族の海外移民が急増したのは清末の18世紀以降で,奴隷貿易の廃止をうけて,広東,福建を中心とする沿岸地方出身者が,移民労働力として東南アジア,北米などに向かったものである。
→関連項目華南漢民族陳嘉庚廖承志ワチラウット

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世界大百科事典 第2版の解説

かきょう【華僑 Huá qiáo】

本籍をもったまま海外に居住している中国人のことをいう。華僑の〈僑〉とはもともと仮住居の意味で,中国内地においても本籍地を離れ,他郷に住むものを僑人といった。
[華僑発展の歴史]
 中国では古くから国外に出て貿易することは禁止されていたので,海外居住は法律上認められていなかった。華僑ということばも19世紀末から使われ始めたようである。しかし,実際には商人の長期にわたる海外居住もある程度まで黙認されていたことは,すでに12世紀初めの宋代の文献にみえている。

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大辞林 第三版の解説

かきょう【華僑】

〔「華」は中国、「僑」は仮住まいの意〕
長期にわたり海外に居住する中国人およびその子孫。東南アジアに多く、経済的に大きな影響力をもつ。今日では移住先に定着し、自らを華人と規定することが多い。 → 華商華人

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

華僑
かきょう

華僑という語は、本来、在外中国人(中国国籍を保持したまま、長期的に、私的に中国領土外の土地や国に居住する人々)の総称である。第二次世界大戦後、日本では当用漢字が制定され、「僑」の字が当用漢字外の字となったため、マスコミは華僑の言い換え語に華商を俗称として使用してきた。商のもつ語感と字感がそのまま華商の漢語的表現に乗り移って、華僑即華商のイメージが日本語として定着し始め、錯覚と誤解を生んできた。華僑はもともと中国語で、「華」は中国を意味する中華の華、「僑」は僑居(仮住まい)もしくは僑民(仮住まいする人々)の僑からそれぞれとり、その組合せでできた略語といってよい。[戴国

華僑社会の形成

中国人の海外移住史は、おおよそ次の2期に分けてみることができる。
(1)アヘン戦争(1840~42)以前 中国が古代四大文明国の一つで、中華文明は近世までその優位性をほしいままにしていたゆえに、中国人と外国の交流史はかなり古くまでさかのぼれる。
 しかし、晋(しん)から唐にかけてみられた仏教をめぐる文化交流、唐・宋(そう)において原型が整えられる朝貢貿易、来華が頻繁となり始めるアラビア商人、これらを中心とした経済交流は、華僑を生み出すまでには至らなかった。
 華僑の初期的存在をもたらしたのは元から明(みん)の中期にかけての、王朝による海外遠征(元・世祖(せいそ)の東南アジア遠征、明・鄭和(ていわ)による7回に及ぶ南海遠征が著名)と、「不逞(ふてい)」中国人の倭寇(わこう)参加だった。遠征軍と倭寇関係者の現地での残留分子がいわば華僑の元祖である。
 なお中国人の集団的、そして真正の意味における海外移住は明末をもって始まる。とくに倭寇対策で勘合貿易を民間にも開放した明の穆宗(ぼくそう)(在位1567~72)以降、中国人の南洋との交易は一段と盛んになり、生活のための移住と定着、すなわち華僑社会の形成が徐々に始まる。続いて入関した清(しん)朝の圧迫で、明朝関係者の南遷と集団的海外避難が起こり、近代以前の華僑社会形成のピーク期をつくりあげる。だが明末清初までの海上交通の手段は季節風に頼る「ジャンク」だったので、量的にはたいしたものではない。
(2)アヘン戦争前後から今日まで 近代以降、華僑として話題になる人々の多くは、アヘン戦争前後以降に海外へ移住もしくは出稼ぎに行ったまま、居住地(国)にとどまった人およびその末裔(まつえい)である。華僑ならびに華僑社会は、押し出す側の中国と受け入れる側の居住地(国)の双方における、歴史的な、あるいは政治、社会、経済的状況の交差のなかからはぐくまれてきた存在である。ことばをかえれば、世界史的所産といえる。そのうちでもっとも著名なのはいわゆる苦力(クーリー)貿易による移住である。苦力貿易は英語でピッグ・トレードpig tradeともいう。pigは広東(カントン)語でいう「猪仔(ツウチァイ)」(ブタの子の意)である。弁髪をpig tailとあざ笑い、家畜同様ぎゅうぎゅう詰めにして蒸気汽船の甲板または4等船室で大量にアジア、アメリカ大陸へ運んだことが語源といわれる。「猪仔」の非人間的境遇をつくりだしたのは、ほかでもない清朝統治の政治的腐敗と、それに伴う経済的疲弊、これに拍車をかけたイギリスをはじめとするウェスタン・インパクト、アヘン戦争を手始めとした西欧列強の中国侵略である。アヘン戦争などで解体を余儀なくさせられた華南一帯の農村社会は、当然のことながら多数の流亡農民を生み出した。これら流亡農民を外で待ち受けていたのは、西欧列強の植民地主義だった。当時西欧資本主義は産業資本主義の満開への道程にあった。植民地の分割と独占への角逐、それに並行して植民地開発は急ピッチに展開した。
 それまで植民地外から導入される労働者は主としてアフリカ大陸の黒人労働者だった。しかしアフリカ大陸自体の植民地化、さらには相次ぐ奴隷解放令の実施(イギリスは1833年、フランスは48年、ペルーは55年、アメリカは60年、オランダは63年、スペインは70年)で、安い労働力源は枯渇または喪失をみせ始めた。黒人奴隷の代替労働力への需要が世界的規模において生じてくる。イギリスの植民地支配で生み出された南インドの流亡農民と、華南をおもな流出源とする中国の流亡農民が、その代替労働力の主たるものとして浮かび上がる。苦力(クーリー)は英語のcoolieから、その英語の語源はさらにヒンディー語のkuliあるいはタミル語のkuliに求められる。サトウキビ畑などの農園、ジャングルの開発、金・錫(すず)鉱山の採掘、鉄道の敷設労働者として、初めはインド人のクーリーが、続いて中国人の苦力が南アフリカ、西インド諸島(とくにキューバ)、アメリカ、カナダ、ペルー、英領ギアナ(現ガイアナ)、パナマ、オーストラリア、ハワイ、東南アジアなどに導入、連行された。これが史上有名な「ピッグ・トレード」である。
 初期の苦力の海外渡航(なかんずく東南アジア向けの場合)はけっして公明正大な自由契約に基づくものではなかった。むしろヨーロッパ系の移民会社、苦力貿易業者が苦力のおもな輸出港――厦門(アモイ)、汕頭(スワトウ)、広東(カントン)、香港(ホンコン)、マカオにまで出向いてきて、その下請けをした中国人奸商(かんしょう)(苦力頭または猪仔頭ともいう)を使って、生活苦にさいなまれていた流亡農民を誘拐したり、ごまかしたりして、甲板や船底につなぎ、そして押し込む形で連行した。現地では、慣れない気候と風土、マラリアなどの風土病が待ち受け、彼らはそれらの悪条件に耐えながら「苦工」という力仕事をこなしていた。苦力の一部はやがて小商人となり、植民者と被植民者のミドルマン的存在として植民地支配体制に組み込まれ、華僑社会が徐々にできあがる。この先行者社会につてを求めて親戚(しんせき)、縁故者らが続々と詰めかけ、今日みられる大量でそしてユニークな「よそ者」社会が形成された。[戴国

華僑から華人への苦悶と矛盾

華僑が華僑であり続ける間、すなわち仮住まいで出稼ぎの中国人であり続ける限り、彼らのほとんどが「衣錦(いきん)還郷」(錦(にしき)を飾って故郷に帰る)を夢に、そして「落葉帰根」(葉が落ちて根っこに戻る、いずれは父祖の墳墓の地に帰る)を生活原理にして居住地(国)において生業を営むのが一般である。しかし第二次世界大戦の終戦を境に、華僑の居住地(国)と彼らの父祖の国、中国大陸の政治・経済体制と両者を取り巻く国際関係の双方に大変動が訪れる。居住地(国)は植民地から独立国に、父祖の故郷(国)は国共内戦を経て社会主義中国が姿を現す。華僑は、それまでの「根なし草」的、「ミドルマン」的生き方からの脱皮を、強く内外から迫られる境地に追い込まれていった。変化した中国大陸は、そのイデオロギーと政治体制からして、もはや華僑の末裔の政治的、法律的アイデンティティ(帰属)の拠(よ)るべき国ではなくなってくる。中国大陸はまさに、華僑の末裔にとって「祖国は遠くにありて思うもの、住むべき所にあらず」の存在となりつつあった。米ソの冷戦体制、激化する東西対立、アメリカの中国封じ込め政策が底流として流れ続けた1970年代初頭までの国際環境下で、彼らは身の処し方をめぐるディレンマに深く陥る。彼らは生活の原理を、「落地生根」(居住地に根づいていく)に変えながら、生活の夢は「開花結実」(居住地に根づいたあと、花を開かせ実を結ばせる)に託し、それまでの「衣錦還郷」にとってかわるべく生き残る道を模索し始める。
 居住地の多くが独立国として立ち上がったころ、華僑の父祖の国では、中国共産党が北京(ペキン)で政権を掌握し、国号を中華人民共和国に変えていた。なお中華民国を国号に定めた国民党政権は、台湾海峡を渡って台湾に拠る状況である。政治的、法律的アイデンティティの選択を自分たちの「実存」絡みで迫られた華僑たちは、事情が許す限り、居住国の市民権、国籍を選ばざるをえなかった。つまり彼らは華僑から華人への道を選んだのである。
 華人とは、華僑が居住国の国籍、市民権を取得したのち、自己を表現するにふさわしい自称として意識的に選び取ったことばである。英語での自称の例としてChinese-AmericanとかMalaysian Chinese originなどが使われるようになってきている。それを日本語に訳すと、米国籍華人(中国語では美籍華人)、マレーシア国籍華人(中国語では馬来西亜籍華人、華裔馬来西亜人)となろう。いわんとするところは、自分たちは仮住まいの根なし草的存在ではないし、中国国籍を保持したままの出稼ぎ人ではもはやない、ことにある。
 だが華人を取り巻く居住国の政治、経済、社会的環境の現実は厳しい。東南アジア諸国のうち、タイ国が唯一の例外であるほかは、ほとんどの国が欧米列強の植民地支配から独立して年月の浅い新興国家である。したがって、政治面においては民主主義は未熟で、国によっては軍事政権、独裁政権が続いている。経済面においても植民地的経済構造のくびきにいまなおつながれたままで、貧困から十分に自由でなく、国民経済の成熟度はあと一歩の感が深い。社会面では統一言語の未確立と非識字者の普遍的存在、多元的な人種・民族の併存、多元的宗教と文化の諸価値が、ばらばらと放置されたままになっている。
 より致命的なことは、植民地主義によってスポイルされた被植民者大衆は、白人のあらゆる面での優位性を受け入れ、欧米を主流とした「近代」への劣等感を深く抱き続けていることである。その反動として、心ある指導者、既得権益を保持しようとあくせくしている特権階級のいずれを問わず、階級矛盾よりは、人種、民族、宗教上の対立面に目を向け、民衆にもそのように仕向ける。その結果、人々は基本的矛盾を見失い、人種主義のとりことなり、怒れる若い世代は狂信的な国粋的民族主義者に仕立てあげられ、彼らは排他的暴力行為に走る。その暴力ざたさえも正義ある英雄的行動として幅広く社会的には受け入れられる。
 華僑から華人への自己脱皮の道は、先にあげた厳しい社会的現実のもとに、おびただしい流血を代償にしてなお遅々として進まない状況である。流血の最たる事例は、インドネシアの九月三〇日事件(1965年、スカルノ体制崩壊につながったクーデター事件。この事件に多くの華僑・華人が巻き込まれ、かなり多数の犠牲者が出たという)、マレーシアの五・一三事件(1969年、クアラ・ルンプールで起こった人種暴動事件。華人が多数虐殺された)と、ベトナム統一後、大量に海にほうり出されたボートピープル(その8割が華僑・華人系であり、サルトルらはこれを「海のアウシュウィッツ」と批判した)をあげることで十分だろう。数々の迫害行為を支える東南アジア諸国のネイティブ(先住民)の感情や思考に関して、歴史の背景ならびに植民地遺制との連関を踏まえて、冷静な分析あるいは批判が期待される。[戴国

新中国と華僑・華人

華僑・華人をめぐる国際環境、なかんずく東南アジアでの状況は米中接近(1972年初め米大統領ニクソンの北京訪問で開始)まで、「華僑」は中国の第五列と白眼視されていた。とくに、文化大革命期における極左派行動の域外への波及で居住国民からの反撃を受けることも少なくなかった。他方、社会主義中国=祖国再建の熱情で帰国した帰国華僑と海外華僑の国内留守家族は、1957年夏に始まった反右派闘争から78年末に実施をみる改革開放政策まで、彼らの出身階級と「海外関係」に疑いがかけられ差別された。[戴国

冷戦体制の終結と新動向

米中接近、東南アジア諸国の中国承認、毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)の死と小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)の復権、1989年末に始まる東欧の激動とソ連解体、なかでも軽視できないのは、華僑・華人が主体のマラヤ共産党が武装解除(1989年12月に協定調印)したことである。これに先駆けてフィリピンでマルコスにかわって大統領に当選したアキノ(コリー)が自らの華裔(かえい)的出自を明らかにした。そして、1988年4月14日の中国初訪問に際しては、大祖父許玉寰(きょぎょくかん)の故郷福建(ふっけん/フーチエン)省龍海(りゅうかい/ロンハイ)県鴻漸(こうぜん/ホンチェン)村の許氏宗祠(そうし)を参拝して、その後北京入りした。マルコスが自らの華裔的血筋を隠したのに比べ、マルコス政権打倒の精神的リーダーでカトリック教会枢機卿(すうききょう)のシン(辛)Jaime L. Sin(1928―2005)が華人一世であることを公開したことや、コリーの父祖の地訪問など、隔世の感がある。居住国関係者の「恐共病」が癒されつつあるといっていいであろう。
 華僑・華人が他者に「血」の出自を問われ、原罪意識を強制されることなく生活できる日が訪れてきたようである。[戴国

華僑・華人のアイデンティティ


当面の問題

(1)華人(中華)経済圏形成への胎動
 新中国と東南アジア諸国関係の好転、冷戦体制の終息(イデオロギー時代にかわって経済競争時代が到来)で、華僑・華人排斥の風潮が緩和されてきた。また、中国の改革開放政策のいっそうの深化で、東南アジア華僑・華人経済がそれに連動し始めた。台湾資本の、中国を中心とした隣接地域、国家への進出、香港(1997年)とマカオ(1999年)の中国復帰で中華経済圏形成の動きが始まった。
 忘れてならないのは、ASEAN(東南アジア諸国連合)の後発国ベトナムが改革開放政策(ドイモイ=刷新)を導入して以来、1990年代の経済成長率平均6%以上という高成長を遂げたことである。メコン川流域のもう一つの国カンボジアもやっと政局安定の兆しがみえ始め、1999年4月にはASEAN加盟を果たした。ASEAN10か国体制の発足とインドシナ革命時に国外脱出した旧華僑・華人に加えて、シンガポール、台湾、タイなどの華僑・華人資本が大挙して同地域に進出した。これは、まったく新しい形の「華僑」社会の形成を示している。
 日本においても、労働力不足や留学生受入れ政策の大幅な緩和に伴って若年知識労働者的性格をもった中国大陸からの移住者を中心に「華僑・華人」化現象が起きている。反面、大陸からの新「華僑」をめぐる社会問題もまた頻発しているのが実状である。彼らをめぐっての「需要か排除か」の知恵が日本社会の国際化をはかるリトマス試験紙ともなっているといえよう。
(2)アジア雁行(がんこう)的経済発展モデルの有効性
 1990年代前半までのアジア高度成長経済の解釈に、(A)開発独裁、(B)日本を先頭にした雁行形態的発展モデルがよく使われた。モデルとは、とくに1980年代なかばから90年代なかばまでの東アジアと東南アジアの高度経済発展モデルのことをいう。「日本を先頭に、その後を台湾、韓国、香港(ホンコン)、シンガポールのアジア新興工業経済地域(Asia NIES)が追い、タイなどのASEAN諸国や中国大陸が続く」という雁行形態に託した言い方である。(A)は、アジアにおける全般的民主化傾向によって色褪(あ)せてきた。残った(B)も、1997年7月に突如としてタイ、インドネシア、マレーシア等々を襲ったアジア通貨・経済危機と日本の泡沫(ほうまつ)(バブル)経済などの善後処置が順調でないこともあって、その持続的有効性には疑念がある。
(3)世界貿易機関(WTO)への中・台同時加盟と中国の西部大開発
 政治面での南北朝鮮の和解と中・台両岸の緊張緩和が前提となるが、経済面での課題は、さらなる改革開放の深化、とりわけ2001年11月に実現した中・台のWTO加盟後の経済運営、そして中国西部開発の着手である。WTOへの加盟は、改革開放の新たな出発点と期待されている。中国西部開発は、ASEAN10か国体制の発足(1999年4月)と、アメリカ大統領クリントンの初訪越(2000年11月16~19日)に象徴される米越関係の好転を契機に、中国西南部の開発を促進させる。これらは、メコン川流域を中心とするインドシナ三国、さらには隣接国のミャンマーへと拡大する。当地域の諸国は、かつて華僑・華人の経済面での舞台であったことは想起に値しよう。また、ボートピープルで流出した元ベトナム華僑・華人の回流や、東南アジアの華僑・華人系企業家が台湾系企業とも手を結んでインドシナ三国へ進出していることも付言しておきたい。[戴国
居住国それぞれの問題と展望
いわゆる華人社会や華僑とよばれる人々の置かれている状況は、各居住国によって明らかに異なり、主体的意識もまた多岐に分かれている。したがって、血に限定した形で「東南アジアには『華僑』が約2000万散在している」といった表現はあまり意味があるとは思えない。居住歴が数世代に及ぶ華裔(かえい)、居住地生まれで華語(中国語)教育を経ていない人々の大半は中国人意識が希薄か、もしくは有しないのが通常である。元華僑で居住国国籍を取得した華人は、政治的、法律的アイデンティティを、中国ではなく居住国に求めるのは当然で、理にかなったことでもある。その成功例がシンガポールで、努力中の典型はマレーシアにみいだせる。シンガポールでは華人が総人口の約77%を占め、政治的主導権も彼らの掌中にある。またマレーシアにおいては総人口の約32%を占める華人が、人口数によって反映される社会力と植民地体制下ではぐくまれてきた経済力に支えられて、ある種の均衡を微妙に保ち続けている。彼らは華人中心の政党をもっているが、経済力にふさわしい政治力の行使と、市民的諸権利の平等な享受は、なお妨げられている。華人らが現行のブミプトラ(土地っ子政策といわれるマレー人優先政策)の修正と、母語(華語)による教育権の拡大を要求しているゆえんである。
 一方、彼らは自らの文化的、社会的アイデンティティをなおも自らの出自との関連で中華文明に強く拠ろうと試みる。たとえば「華僑」のなかで、優れて自らの出自に誇りとこだわりをもち続けているグループに客家(ハッカ)の人たちがいる。客家は中国の方言の一つである客家語を話す漢民族の一分支で、先祖はもともと黄河流域の中原(ちゅうげん)に住んでいた。たび重なる戦乱のあおりで子孫は広東(カントン)、四川(しせん/スーチョワン)、福建(ふっけん/フーチエン)、江西(こうせい/チヤンシー)、台湾に移住、さらには東南アジア、アメリカ大陸、ハワイなどに出稼ぎに行き、華僑化した。その傑出した人物に孫文(そんぶん/スンウェン)、廖承志(りょうしょうし/リヤオチョンチー)小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)、1990年までシンガポールの首相であったリー・クアン・ユーなどがいる。
 なお、タイでの問題は特異である。過去数世紀にわたる混血(宗教上の軋轢(あつれき)がない)と華人の政治的参加に寛容であったタイの朝廷の歴史が重なり合って、だれが華人であるかの識別は容易ではない。何分の一の血を継承しているゆえに華人をうんぬんする人種的視角に固執するのは愚行の一つでしかない。
 フィリピンも混血が比較的に進んでいる国である。革命家ホセ・リサールと元大統領マルコスに華僑の血が流れているといって彼らを華人の範疇(はんちゅう)に入れる方式は意味あることではあるまい。事実その華裔人口は数十万人にも達するといわれる。インドネシアとベトナムは旧植民地時代以来の二重国籍問題が尾を引いていて、だれが華僑で、だれが華人で、だれが華裔であるかが明らかではない。1980年9月10日、ようやく「中華人民共和国国籍法」が公布された。関係者の法意識の成熟には時間がなお必要だろうが、華僑と華人の区別に新中国側の依拠する国籍法ができたのは、画期的なことである。
 経済的貧困と国内矛盾の激化の引き伸ばし策として華僑・華人はかっこうの素材であり、スケープゴートとして引きずり出される。統計の未整備と、根本的解決策を模索する余裕がないか、もしくは解決の真の担い手たりえない現政治指導層の社会的、階級的性格の限界もあって、華僑関係の諸概念は法律的にもあいまいのまま放置され、その人口数もまた旧態依然の「数合わせ」でお茶をにごしている始末である。
 人類的スケールと長期的展望を組み合わせて問題の本質にアプローチできないままの東南アジア政治指導層は、いまなお華僑問題を「国民統合での異分子=よそ者」、「流通経済を牛耳(ぎゅうじ)る悪徳商人で、民族経済=国民経済形成の主要な阻害者」、「中華思想の体現者で、限りなく中国に忠誠を尽くそうとする二重人格者集団」などと、華僑、華人、華裔の区別なくじゃま者扱いにしている。もちろん「華僑」側に全然非がないわけではない。そもそも華僑は歴史的に、植民地体制下で人種・民族的差別によって疎外された人々であるゆえ、生きるために、植民者と土着被植民者の間隙(かんげき)を縫って生業を営んできた。その過程で悪業も、そしてミドルマンとして植民地主義の悪(あ)しき汚物処理の係員として働かせられた。その結果、白眼視され、憎悪の対象となる。「華僑」らは、中華思想に後ろ髪を引かれるかたわら、西欧近代の付属物的存在であったことで、ネイティブ社会に優越感を抱いた。植民者の分割支配政策の影響下で、ネイティブと「華僑」の心理的距離は一段と拡大され、対立抗争の構図が最終的にはつくられた。
 社会的少数派としての、もしくは新参(事実は、数世代以来の、もしくは現地生まれの人々が圧倒的多数を占める)の市民としての基本的人権の確立を求める控え目な営為さえ疑惑の目で見られる。この状況が続く限り、華人への道はなお流血と苦悩に満ちたものであり続けるだろう。政治家、弁護士、医師、教師、ジャーナリストの分野にも多くの人材を提供し始めている華人社会の内側から、華人の真なる自立への自助努力が期待される。この自助努力の成果は、やがて居住国の民主化、近代化にもよき影響を与えるのは指摘するまでもない。なお、就業構造の人種的、民族的アンバランスによって生ずる華僑・華人系住民の国民所得分配での相対的優位性は、経済構造を含む植民地遺制を克服しない限り是正は困難である。上からの法令による華僑・華人への職業制限だけでは社会経済的停滞をいたずらに招くのが落ちであろう。農地制度をはじめとする封建的、植民地的社会経済構造の抜本的改造が期待されるゆえんである。それ以外に華僑・華人経済の古い体質の克服の道はない。[戴国

日本の華僑・華人

入国管理局によると、日本には2003年(平成15)12月末で在日中国人が約46万人いる。5年前の19万人増で年々増加している。この数字には日本国籍をもつ人々は含まれていない。1982年(昭和57)「出入国管理令」が改正されて「出入国管理および難民認定法」となり、それ以後も改正が続けられたことで、永住権取得者が増える傾向にある。隣接するゆえに、古来、日本は中国人の避難の地、貿易の地として重宝がられてきた。明治維新以前の渡来者は、日本社会の強烈な同化要請下で多くは日本人の一員として埋没し、石碑や古文献にこそ記録されるが、華裔として子孫が顕在化することは少ない。日中同文同種論の拠るところであり、その結果の一つとしてみることもまた可能である。横浜、神戸、大阪、長崎、函館(はこだて)などの港町に唐人街(チャイナタウン、中華街)が明確な形で現れるようになるのは明治維新以降である。外国船員として活躍する広東省人、洋館の買弁(ばいべん)もしくは自家営業として日本貿易の一翼を担った三江(江蘇(こうそ/チヤンスー)、江西(こうせい/チヤンシー)、浙江(せっこう/チョーチヤン))出身者がいる。港町の繁栄に伴って三刀業者(コック、裁縫師、床屋)の熟練労働者もまた流入した。ただし明治政府は自衛策のため低賃金労働者の入国は堅く拒んだ。
 日清(にっしん)戦争後、日本が台湾を植民地化したので、日台貿易業者、留学生、徴用(軍人・軍属)関係者などが来日した。彼らを主流に台湾出身「華僑」社会が形成され、その数は目下約半数を占め、津々浦々で活躍する台湾人医師はとくに著名である。その後「満州国」「汪兆銘(おうちょうめい/ワンチャオミン)政権」など関係者の亡命グループも加わり、教育熱心もあって、在日「華僑」社会は他にはみられないほどの高学歴者社会を生み出している。第二次世界大戦後日本での議会制民主主義が徐々に円熟化しつつあり、「華僑」社会が少人数で高学歴かつ高所得でもあるので、軋轢(あつれき)のケースはしだいに減少してきた。[戴国
『ガース・アレキサンダー著、早良哲夫訳『華僑・見えざる中国』(1975・サイマル出版会) ▽戴国著『華僑』(1980・研文出版) ▽日本経済新聞社編『華僑』(1981) ▽戴国編『もっと知りたい華僑』(1991・弘文堂) ▽スターリング・シーグレーブ著、山田耕介訳『華僑王国――環太平洋時代の主役たち』(1996・サイマル出版会)』

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世界大百科事典内の華僑の言及

【移民】より

…さらに同事業団は海外技術協力事業団などと統合され,1974年国際協力事業団に改組改称された。【岡部 牧夫】
【中国の移民】
 中国の国外移民は華僑とよばれる。〈僑〉とは仮住いの意。…

【シンガポール華僑殺害事件】より

…マレー半島を〈破竹の快進撃〉で南下した日本軍は,42年2月,イギリスの要塞シンガポールを占領した。その直後から,中国語で〈検証〉といわれる日本軍による華僑殺害が行われた。ここでいう〈検証〉とは,特定地域の住民を日本軍が学校などに集合させ,そこで憲兵隊による〈反日分子〉のチェックを行い,〈反日分子〉と断定された人々を山中や海岸に拉致し殺害したことをいう。…

【対華投資】より

…中国に対する投資をいうが,歴史的に見ると,列国による投資と,華僑による投資とがある。
[列国の対華投資]
 18世紀初頭に東インド会社がすでに広東十三行商人に貸付けをおこなっていたが(公行),南京条約を機に,開港場を中心として貿易活動に対する投資が本格化した。…

【排日運動】より

… 日本は排日ボイコット運動に直接有効な対応をとり得ず,中国政府にその取締りを要求したが,一方においてボイコットが中国政府の了解・指導のもとで対日政策の一手段として運用されているとの認識のもとで,たとえば袁世凱政権の交代,国民政府の打倒などを意図するにいたったのである。対日ボイコット運動【臼井 勝美】
[東南アジアなど]
 日本の中国大陸への侵略拡大は,孫文によって〈革命の母〉と呼ばれた華僑にとっても看過できないことであった。東南アジア地域の華僑が,日貨排斥に動いたのは1915年の対中二十一ヵ条要求が明らかになったときに始まる。…

※「華僑」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

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