華僑という語は、本来、在外中国人(中国国籍を保持したまま、長期的に、私的に中国領土外の土地や国に居住する人々)の総称である。第二次世界大戦後、日本では当用漢字が制定され、「僑」の字が当用漢字外の字となったため、マスコミは華僑の言い換え語に華商を俗称として使用してきた。商のもつ語感と字感がそのまま華商の漢語的表現に乗り移って、華僑即華商のイメージが日本語として定着し始め、錯覚と誤解を生んできた。華僑はもともと中国語で、「華」は中国を意味する中華の華、「僑」は僑居(仮住まい)もしくは僑民(仮住まいする人々)の僑からそれぞれとり、その組合せでできた略語といってよい。
[戴国煇]
中国人の海外移住史は、おおよそ次の2期に分けてみることができる。
(1)アヘン戦争(1840~1842)以前 中国が古代四大文明国の一つで、中華文明は近世までその優位性をほしいままにしていたゆえに、中国人と外国の交流史はかなり古くまでさかのぼれる。
しかし、晋(しん)から唐にかけてみられた仏教をめぐる文化交流、唐・宋(そう)において原型が整えられる朝貢貿易、来華が頻繁となり始めるアラビア商人、これらを中心とした経済交流は、華僑を生み出すまでには至らなかった。
華僑の初期的存在をもたらしたのは元から明(みん)の中期にかけての、王朝による海外遠征(元・世祖(せいそ)の東南アジア遠征、明・鄭和(ていわ)による7回に及ぶ南海遠征が著名)と、「不逞(ふてい)」中国人の倭寇(わこう)参加だった。遠征軍と倭寇関係者の現地での残留分子がいわば華僑の元祖である。
なお中国人の集団的、そして真正の意味における海外移住は明末をもって始まる。とくに倭寇対策で勘合貿易を民間にも開放した明の穆宗(ぼくそう)(在位1567~1572)以降、中国人の南洋との交易は一段と盛んになり、生活のための移住と定着、すなわち華僑社会の形成が徐々に始まる。続いて入関した清(しん)朝の圧迫で、明朝関係者の南遷と集団的海外避難が起こり、近代以前の華僑社会形成のピーク期をつくりあげる。だが明末清初までの海上交通の手段は季節風に頼る「ジャンク」だったので、量的にはたいしたものではない。
(2)アヘン戦争前後から今日まで 近代以降、華僑として話題になる人々の多くは、アヘン戦争前後以降に海外へ移住もしくは出稼ぎに行ったまま、居住地(国)にとどまった人およびその末裔(まつえい)である。華僑ならびに華僑社会は、押し出す側の中国と受け入れる側の居住地(国)の双方における、歴史的な、あるいは政治、社会、経済的状況の交差のなかからはぐくまれてきた存在である。ことばをかえれば、世界史的所産といえる。そのうちでもっとも著名なのはいわゆる苦力(クーリー)貿易による移住である。苦力貿易は英語でピッグ・トレードpig tradeともいう。pigは広東(カントン)語でいう「猪仔(ツウチァイ)」(ブタの子の意)である。弁髪をpig tailとあざ笑い、家畜同様ぎゅうぎゅう詰めにして蒸気汽船の甲板または4等船室で大量にアジア、アメリカ大陸へ運んだことが語源といわれる。「猪仔」の非人間的境遇をつくりだしたのは、ほかでもない清朝統治の政治的腐敗と、それに伴う経済的疲弊、これに拍車をかけたイギリスをはじめとするウェスタン・インパクト、アヘン戦争を手始めとした西欧列強の中国侵略である。アヘン戦争などで解体を余儀なくさせられた華南一帯の農村社会は、当然のことながら多数の流亡農民を生み出した。これら流亡農民を外で待ち受けていたのは、西欧列強の植民地主義だった。当時西欧資本主義は産業資本主義の満開への道程にあった。植民地の分割と独占への角逐、それに並行して植民地開発は急ピッチに展開した。
それまで植民地外から導入される労働者は主としてアフリカ大陸の黒人労働者だった。しかしアフリカ大陸自体の植民地化、さらには相次ぐ奴隷解放令の実施(イギリスは1833年、フランスは1848年、ペルーは1855年、アメリカは1860年、オランダは1863年、スペインは1870年)で、安い労働力源は枯渇または喪失をみせ始めた。黒人奴隷の代替労働力への需要が世界的規模において生じてくる。イギリスの植民地支配で生み出された南インドの流亡農民と、華南をおもな流出源とする中国の流亡農民が、その代替労働力の主たるものとして浮かび上がる。苦力(クーリー)は英語のcoolieから、その英語の語源はさらにヒンディー語のkuliあるいはタミル語のkuliに求められる。サトウキビ畑などの農園、ジャングルの開発、金・錫(すず)鉱山の採掘、鉄道の敷設労働者として、初めはインド人のクーリーが、続いて中国人の苦力が南アフリカ、西インド諸島(とくにキューバ)、アメリカ、カナダ、ペルー、英領ギアナ(現、ガイアナ)、パナマ、オーストラリア、ハワイ、東南アジアなどに導入、連行された。これが史上有名な「ピッグ・トレード」である。
初期の苦力の海外渡航(なかんずく東南アジア向けの場合)はけっして公明正大な自由契約に基づくものではなかった。むしろヨーロッパ系の移民会社、苦力貿易業者が苦力のおもな輸出港――厦門(アモイ)、汕頭(スワトウ)、広東(カントン)、香港(ホンコン)、マカオにまで出向いてきて、その下請けをした中国人奸商(かんしょう)(苦力頭または猪仔頭ともいう)を使って、生活苦にさいなまれていた流亡農民を誘拐したり、ごまかしたりして、甲板や船底につなぎ、そして押し込む形で連行した。現地では、慣れない気候と風土、マラリアなどの風土病が待ち受け、彼らはそれらの悪条件に耐えながら「苦工」という力仕事をこなしていた。苦力の一部はやがて小商人となり、植民者と被植民者のミドルマン的存在として植民地支配体制に組み込まれ、華僑社会が徐々にできあがる。この先行者社会につてを求めて親戚(しんせき)、縁故者らが続々と詰めかけ、今日みられる大量でそしてユニークな「よそ者」社会が形成された。
[戴国煇]
華僑が華僑であり続ける間、すなわち仮住まいで出稼ぎの中国人であり続ける限り、彼らのほとんどが「衣錦(いきん)還郷」(錦(にしき)を飾って故郷に帰る)を夢に、そして「落葉帰根」(葉が落ちて根っこに戻る、いずれは父祖の墳墓の地に帰る)を生活原理にして居住地(国)において生業を営むのが一般である。しかし第二次世界大戦の終戦を境に、華僑の居住地(国)と彼らの父祖の国、中国大陸の政治・経済体制と両者を取り巻く国際関係の双方に大変動が訪れる。居住地(国)は植民地から独立国に、父祖の故郷(国)は国共内戦を経て社会主義中国が姿を現す。華僑は、それまでの「根なし草」的、「ミドルマン」的生き方からの脱皮を、強く内外から迫られる境地に追い込まれていった。変化した中国大陸は、そのイデオロギーと政治体制からして、もはや華僑の末裔の政治的、法律的アイデンティティ(帰属)の拠(よ)るべき国ではなくなってくる。中国大陸はまさに、華僑の末裔にとって「祖国は遠くにありて思うもの、住むべき所にあらず」の存在となりつつあった。米ソの冷戦体制、激化する東西対立、アメリカの中国封じ込め政策が底流として流れ続けた1970年代初頭までの国際環境下で、彼らは身の処し方をめぐるディレンマに深く陥る。彼らは生活の原理を、「落地生根」(居住地に根づいていく)に変えながら、生活の夢は「開花結実」(居住地に根づいたあと、花を開かせ実を結ばせる)に託し、それまでの「衣錦還郷」にとってかわるべく生き残る道を模索し始める。
居住地の多くが独立国として立ち上がったころ、華僑の父祖の国では、中国共産党が北京(ペキン)で政権を掌握し、国号を中華人民共和国に変えていた。なお中華民国を国号に定めた国民党政権は、台湾海峡を渡って台湾に拠る状況である。政治的、法律的アイデンティティの選択を自分たちの「実存」絡みで迫られた華僑たちは、事情が許す限り、居住国の市民権、国籍を選ばざるをえなかった。つまり彼らは華僑から華人への道を選んだのである。
華人とは、華僑が居住国の国籍、市民権を取得したのち、自己を表現するにふさわしい自称として意識的に選び取ったことばである。英語での自称の例としてChinese-AmericanとかMalaysian Chinese originなどが使われるようになってきている。それを日本語に訳すと、米国籍華人(中国語では美籍華人)、マレーシア国籍華人(中国語では馬来西亜籍華人、華裔馬来西亜人)となろう。いわんとするところは、自分たちは仮住まいの根なし草的存在ではないし、中国国籍を保持したままの出稼ぎ人ではもはやない、ことにある。
だが華人を取り巻く居住国の政治、経済、社会的環境の現実は厳しい。東南アジア諸国のうち、タイ国が唯一の例外であるほかは、ほとんどの国が欧米列強の植民地支配から独立して年月の浅い新興国家である。したがって、政治面においては民主主義は未熟で、国によっては軍事政権、独裁政権が続いている。経済面においても植民地的経済構造のくびきにいまなおつながれたままで、貧困から十分に自由でなく、国民経済の成熟度はあと一歩の感が深い。社会面では統一言語の未確立と非識字者の普遍的存在、多元的な人種・民族の併存、多元的宗教と文化の諸価値が、ばらばらと放置されたままになっている。
より致命的なことは、植民地主義によってスポイルされた被植民者大衆は、白人のあらゆる面での優位性を受け入れ、欧米を主流とした「近代」への劣等感を深く抱き続けていることである。その反動として、心ある指導者、既得権益を保持しようとあくせくしている特権階級のいずれを問わず、階級矛盾よりは、人種、民族、宗教上の対立面に目を向け、民衆にもそのように仕向ける。その結果、人々は基本的矛盾を見失い、人種主義のとりことなり、怒れる若い世代は狂信的な国粋的民族主義者に仕立てあげられ、彼らは排他的暴力行為に走る。その暴力ざたさえも正義ある英雄的行動として幅広く社会的には受け入れられる。
華僑から華人への自己脱皮の道は、先にあげた厳しい社会的現実のもとに、おびただしい流血を代償にしてなお遅々として進まない状況である。流血の最たる事例は、インドネシアの九月三〇日事件(1965年、スカルノ体制崩壊につながったクーデター事件。この事件に多くの華僑・華人が巻き込まれ、かなり多数の犠牲者が出たという)、マレーシアの五・一三事件(1969年、クアラ・ルンプールで起こった人種暴動事件。華人が多数虐殺された)と、ベトナム統一後、大量に海にほうり出されたボートピープル(その8割が華僑・華人系であり、サルトルらはこれを「海のアウシュウィッツ」と批判した)をあげることで十分だろう。数々の迫害行為を支える東南アジア諸国のネイティブ(先住民)の感情や思考に関して、歴史の背景ならびに植民地遺制との連関を踏まえて、冷静な分析あるいは批判が期待される。
[戴国煇]
華僑・華人をめぐる国際環境、なかんずく東南アジアでの状況は米中接近(1972年初めアメリカ大統領ニクソンの北京訪問で開始)まで、「華僑」は中国の第五列と白眼視されていた。とくに、文化大革命期における極左派行動の域外への波及で居住国民からの反撃を受けることも少なくなかった。他方、社会主義中国=祖国再建の熱情で帰国した帰国華僑と海外華僑の国内留守家族は、1957年夏に始まった反右派闘争から1978年末に実施をみる改革開放政策まで、彼らの出身階級と「海外関係」に疑いがかけられ差別された。
[戴国煇]
米中接近、東南アジア諸国の中国承認、毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)の死と鄧小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)の復権、1989年末に始まる東欧の激動とソ連解体、なかでも軽視できないのは、華僑・華人が主体のマラヤ共産党が武装解除(1989年12月に協定調印)したことである。これに先駆けてフィリピンでマルコスにかわって大統領に当選したアキノ(コリー)が自らの華裔(かえい)的出自を明らかにした。そして、1988年4月14日の中国初訪問に際しては、大祖父許玉寰(きょぎょくかん)の故郷福建(ふっけん/フーチエン)省龍海(りゅうかい/ロンハイ)県鴻漸(こうぜん/ホンチェン)村の許氏宗祠(そうし)を参拝して、その後北京入りした。マルコスが自らの華裔的血筋を隠したのに比べ、マルコス政権打倒の精神的リーダーでカトリック教会枢機卿(すうききょう)のシン(辛)Jaime L. Sin(1928―2005)が華人一世であることを公開したことや、コリーの父祖の地訪問など、隔世の感がある。居住国関係者の「恐共病」が癒(いや)されつつあるといっていいであろう。
華僑・華人が他者に「血」の出自を問われ、原罪意識を強制されることなく生活できる日が訪れてきたようである。
[戴国煇]
(1)華人(中華)経済圏形成への胎動
新中国と東南アジア諸国関係の好転、冷戦体制の終息(イデオロギー時代にかわって経済競争時代が到来)で、華僑・華人排斥の風潮が緩和されてきた。また、中国の改革開放政策のいっそうの深化で、東南アジア華僑・華人経済がそれに連動し始めた。台湾資本の、中国を中心とした隣接地域、国家への進出、香港(1997年)とマカオ(1999年)の中国復帰で中華経済圏形成の動きが始まった。
忘れてならないのは、ASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)の後発国ベトナムが改革開放政策(ドイモイ=刷新)を導入して以来、1990年代の経済成長率平均6%以上という高成長を遂げたことである。メコン川流域のもう一つの国カンボジアもやっと政局安定の兆しがみえ始め、1999年4月にはASEAN加盟を果たした。ASEAN10か国体制の発足とインドシナ革命時に国外脱出した旧華僑・華人に加えて、シンガポール、台湾、タイなどの華僑・華人資本が大挙して同地域に進出した。これは、まったく新しい形の「華僑」社会の形成を示している。
日本においても、労働力不足や留学生受入れ政策の大幅な緩和に伴って若年知識労働者的性格をもった中国大陸からの移住者を中心に「華僑・華人」化現象が起きている。反面、大陸からの新「華僑」をめぐる社会問題もまた頻発しているのが実状である。彼らをめぐっての「受容か排除か」の知恵が日本社会の国際化をはかるリトマス試験紙ともなっているといえよう。
(2)アジア雁行(がんこう)的経済発展モデルの有効性
1990年代前半までのアジア高度成長経済の解釈に、(A)開発独裁、(B)日本を先頭にした雁行形態的発展モデルがよく使われた。モデルとは、とくに1980年代なかばから1990年代なかばまでの東アジアと東南アジアの高度経済発展モデルのことをいう。「日本を先頭に、その後を台湾、韓国、香港(ホンコン)、シンガポールのアジア新興工業経済地域(Asia NIES)が追い、タイなどのASEAN諸国や中国大陸が続く」という雁行形態に託した言い方である。(A)は、アジアにおける全般的民主化傾向によって色褪(あ)せてきた。残った(B)も、1997年7月に突如としてタイ、インドネシア、マレーシア等々を襲ったアジア通貨・経済危機と日本の泡沫(ほうまつ)(バブル)経済などの善後処置が順調でないこともあって、その持続的有効性には疑念がある。
(3)世界貿易機関(WTO)への中・台同時加盟と中国の西部大開発
政治面での南北朝鮮の和解と中・台両岸の緊張緩和が前提となるが、経済面での課題は、さらなる改革開放の深化、とりわけ2001年11月に実現した中・台のWTO加盟後の経済運営、そして中国西部開発の着手である。WTOへの加盟は、改革開放の新たな出発点と期待されている。中国西部開発は、ASEAN10か国体制の発足(1999年4月)と、アメリカ大統領クリントンの初訪越(2000年11月16~19日)に象徴される米越関係の好転を契機に、中国西南部の開発を促進させる。これらは、メコン川流域を中心とするインドシナ三国、さらには隣接国のミャンマーへと拡大する。当地域の諸国は、かつて華僑・華人の経済面での舞台であったことは想起に値しよう。また、ボートピープルで流出した元ベトナム華僑・華人の回流や、東南アジアの華僑・華人系企業家が台湾系企業とも手を結んでインドシナ三国へ進出していることも付言しておきたい。
[戴国煇]
いわゆる華人社会や華僑とよばれる人々の置かれている状況は、各居住国によって明らかに異なり、主体的意識もまた多岐に分かれている。したがって、血に限定した形で「東南アジアには『華僑』が約2000万散在している」といった表現はあまり意味があるとは思えない。居住歴が数世代に及ぶ華裔(かえい)、居住地生まれで華語(中国語)教育を経ていない人々の大半は中国人意識が希薄か、もしくは有しないのが通常である。元華僑で居住国国籍を取得した華人は、政治的、法律的アイデンティティを、中国ではなく居住国に求めるのは当然で、理にかなったことでもある。その成功例がシンガポールで、努力中の典型はマレーシアにみいだせる。シンガポールでは華人が総人口の約77%を占め、政治的主導権も彼らの掌中にある。またマレーシアにおいては総人口の約32%を占める華人が、人口数によって反映される社会力と植民地体制下ではぐくまれてきた経済力に支えられて、ある種の均衡を微妙に保ち続けている。彼らは華人中心の政党をもっているが、経済力にふさわしい政治力の行使と、市民的諸権利の平等な享受は、なお妨げられている。華人らが現行のブミプトラ(土地っ子政策といわれるマレー人優先政策)の修正と、母語(華語)による教育権の拡大を要求しているゆえんである。
一方、彼らは自らの文化的、社会的アイデンティティをなおも自らの出自との関連で中華文明に強く拠ろうと試みる。たとえば「華僑」のなかで、優れて自らの出自に誇りとこだわりをもち続けているグループに客家(ハッカ)の人たちがいる。客家は中国の方言の一つである客家語を話す漢民族の一分支で、先祖はもともと黄河流域の中原(ちゅうげん)に住んでいた。たび重なる戦乱のあおりで子孫は広東(カントン)、四川(しせん/スーチョワン)、福建(ふっけん/フーチエン)、江西(こうせい/チヤンシー)、台湾に移住、さらには東南アジア、アメリカ大陸、ハワイなどに出稼ぎに行き、華僑化した。その傑出した人物に孫文(そんぶん/スンウェン)、廖承志(りょうしょうし/リヤオチョンチー)、鄧小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)、1990年までシンガポールの首相であったリー・クアン・ユーなどがいる。
なお、タイでの問題は特異である。過去数世紀にわたる混血(宗教上の軋轢(あつれき)がない)と華人の政治的参加に寛容であったタイの朝廷の歴史が重なり合って、だれが華人であるかの識別は容易ではない。何分の一の血を継承しているゆえに華人をうんぬんする人種的視角に固執するのは愚行の一つでしかない。
フィリピンも混血が比較的に進んでいる国である。革命家ホセ・リサールと元大統領マルコスに華僑の血が流れているといって彼らを華人の範疇(はんちゅう)に入れる方式は意味あることではあるまい。事実その華裔人口は数十万人にも達するといわれる。インドネシアとベトナムは旧植民地時代以来の二重国籍問題が尾を引いていて、だれが華僑で、だれが華人で、だれが華裔であるかが明らかではない。1980年9月10日、ようやく「中華人民共和国国籍法」が公布された。関係者の法意識の成熟には時間がなお必要だろうが、華僑と華人の区別に新中国側の依拠する国籍法ができたのは、画期的なことである。
経済的貧困と国内矛盾の激化の引き伸ばし策として華僑・華人はかっこうの素材であり、スケープゴートとして引きずり出される。統計の未整備と、根本的解決策を模索する余裕がないか、もしくは解決の真の担い手たりえない現政治指導層の社会的、階級的性格の限界もあって、華僑関係の諸概念は法律的にもあいまいのまま放置され、その人口数もまた旧態依然の「数合わせ」でお茶をにごしている始末である。
人類的スケールと長期的展望を組み合わせて問題の本質にアプローチできないままの東南アジア政治指導層は、いまなお華僑問題を「国民統合での異分子=よそ者」、「流通経済を牛耳(ぎゅうじ)る悪徳商人で、民族経済=国民経済形成の主要な阻害者」、「中華思想の体現者で、限りなく中国に忠誠を尽くそうとする二重人格者集団」などと、華僑、華人、華裔の区別なくじゃま者扱いにしている。もちろん「華僑」側に全然非がないわけではない。そもそも華僑は歴史的に、植民地体制下で人種・民族的差別によって疎外された人々であるゆえ、生きるために、植民者と土着被植民者の間隙(かんげき)を縫って生業を営んできた。その過程で悪業も、そしてミドルマンとして植民地主義の悪(あ)しき汚物処理の係員として働かせられた。その結果、白眼視され、憎悪の対象となる。「華僑」らは、中華思想に後ろ髪を引かれるかたわら、西欧近代の付属物的存在であったことで、ネイティブ社会に優越感を抱いた。植民者の分割支配政策の影響下で、ネイティブと「華僑」の心理的距離は一段と拡大され、対立抗争の構図が最終的にはつくられた。
社会的少数派としての、もしくは新参(事実は、数世代以来の、もしくは現地生まれの人々が圧倒的多数を占める)の市民としての基本的人権の確立を求める控え目な営為さえ疑惑の目で見られる。この状況が続く限り、華人への道はなお流血と苦悩に満ちたものであり続けるだろう。政治家、弁護士、医師、教師、ジャーナリストの分野にも多くの人材を提供し始めている華人社会の内側から、華人の真なる自立への自助努力が期待される。この自助努力の成果は、やがて居住国の民主化、近代化にもよき影響を与えるのは指摘するまでもない。なお、就業構造の人種的、民族的アンバランスによって生ずる華僑・華人系住民の国民所得分配での相対的優位性は、経済構造を含む植民地遺制を克服しない限り是正は困難である。上からの法令による華僑・華人への職業制限だけでは社会経済的停滞をいたずらに招くのが落ちであろう。農地制度をはじめとする封建的、植民地的社会経済構造の抜本的改造が期待されるゆえんである。それ以外に華僑・華人経済の古い体質の克服の道はない。
[戴国煇]
入国管理局(現、出入国在留管理庁)によると、日本には2003年(平成15)12月末で在日中国人が約46万人いる。5年前の19万人増で年々増加している。この数字には日本国籍をもつ人々は含まれていない。1982年(昭和57)「出入国管理令」が改正されて「出入国管理および難民認定法」となり、それ以後も改正が続けられたことで、永住権取得者が増える傾向にある。隣接するゆえに、古来、日本は中国人の避難の地、貿易の地として重宝がられてきた。明治維新以前の渡来者は、日本社会の強烈な同化要請下で多くは日本人の一員として埋没し、石碑や古文献にこそ記録されるが、華裔として子孫が顕在化することは少ない。日中同文同種論の拠るところであり、その結果の一つとしてみることもまた可能である。横浜、神戸、大阪、長崎、函館(はこだて)などの港町に唐人街(チャイナタウン、中華街)が明確な形で現れるようになるのは明治維新以降である。外国船員として活躍する広東省人、洋館の買弁(ばいべん)もしくは自家営業として日本貿易の一翼を担った三江(江蘇(こうそ/チヤンスー)、江西(こうせい/チヤンシー)、浙江(せっこう/チョーチヤン))出身者がいる。港町の繁栄に伴って三刀業者(コック、裁縫師、床屋)の熟練労働者もまた流入した。ただし明治政府は自衛策のため低賃金労働者の入国は堅く拒んだ。
日清(にっしん)戦争後、日本が台湾を植民地化したので、日台貿易業者、留学生、徴用(軍人・軍属)関係者などが来日した。彼らを主流に台湾出身「華僑」社会が形成され、その数は目下約半数を占め、津々浦々で活躍する台湾人医師はとくに著名である。その後「満州国」「汪兆銘(おうちょうめい/ワンチャオミン)政権」など関係者の亡命グループも加わり、教育熱心もあって、在日「華僑」社会は他にはみられないほどの高学歴者社会を生み出している。第二次世界大戦後日本での議会制民主主義が徐々に円熟化しつつあり、「華僑」社会が少人数で高学歴かつ高所得でもあるので、軋轢(あつれき)のケースはしだいに減少してきた。
[戴国煇]
『ガース・アレキサンダー著、早良哲夫訳『華僑・見えざる中国』(1975・サイマル出版会)』▽『戴国煇著『華僑』(1980・研文出版)』▽『日本経済新聞社編・刊『華僑』(1981)』▽『戴国煇編『もっと知りたい華僑』(1991・弘文堂)』▽『スターリング・シーグレーブ著、山田耕介訳『華僑王国――環太平洋時代の主役たち』(1996・サイマル出版会)』
本籍をもったまま海外に居住している中国人のことをいう。華僑の〈僑〉とはもともと仮住居の意味で,中国内地においても本籍地を離れ,他郷に住むものを僑人といった。
中国では古くから国外に出て貿易することは禁止されていたので,海外居住は法律上認められていなかった。華僑ということばも19世紀末から使われ始めたようである。しかし,実際には商人の長期にわたる海外居住もある程度まで黙認されていたことは,すでに12世紀初めの宋代の文献にみえている。13世紀に宋が元に滅ぼされたときには多くの遺民が海外に逃れ,ベトナムが宋王朝回復の一中心となった。元では宋の残存勢力を壊滅させる目的で東南アジアに軍を出したが,とくに1292年(至元29)ジャワ遠征に失敗したとき,多数の兵士が現地に残って住みついた。これが史上明らかな華僑の大量発生の起源といわれている。元の末には中国の海賊が東南アジアの海上に勢力を張り,スマトラのパレンバンがその根拠地で在留中国人も数千家に上って,さながら独立国の観を呈したという。1405年(永楽3)から明の成祖が数回にわたって鄭和を南海遠征に派遣したのは,これらの海賊を鎮定して政府による貿易独占を図るのが目的であった。当時すでにスマトラのほかジャワ,フィリピン,シャム等には相当数の中国人のいたことが,そのときの従軍者の記録にみえる。
やがてポルトガルを先頭とするヨーロッパ勢力の東進が始まると,これに便乗して密貿易を行う中国の海賊が近海に横行しだした。ついに明では1567年(隆慶1)広東省漳州の海澄県を開港場に指定し,中国の商人は公然と海外渡航ができるようになったのである。清は北京に入城後,南方を完全に平定するのに40年近くも要したので,その間に海外に逃避したものが多かった。これを取り締まる意味から清では貿易統制を厳重にし,違反者には厳罰をもって臨んだ。しかし,中国人の海外渡航はますます盛んで,人数の増加と勢力の拡大によって現地人との間に反目を生じ,明代フィリピンのマニラでは1603年(万暦31)と37年(崇禎10)の2度も華僑の大虐殺が行われ,清代には1740年(乾隆5)ジャワのバタビアで同じく華僑の大虐殺事件が起こった。これに対して明・清政府は植民地の政府に抗議するどころか,まったく無関心だったのである。ところで1786年イギリスがマレー半島のペナンを領有すると,勤勉な中国人は農園や鉱山の労働者として歓迎され,やがてシンガポールの開発が進むとその需要はますます増加した。これに応じて,中国南部の貧困な農民が人さらい同様の手段で拉致され,豚の子のように悲惨な条件で東南アジア各地に強制移民させられたのである。いわゆる豬仔(ちよし)貿易Pig Sellingで,1850-70年がもっとも顕著な時期であった。彼らは自衛のため秘密結社を組織することが多かったが,これを基盤として大勢力を築いたものもある。早く18世紀シャムでトンブリー王朝を立てた鄭昭(ピヤ・タークシン),ボルネオのポンティアナで蘭芳公司(ランファン・コンス)と称する一種の共和国を立てた羅芳伯,19世紀マラヤのクアラ・ルンプルで独立政権を起こした葉亜来のごときがそうである。
19世紀には東南アジアだけではなく,西インド,アメリカ,オーストラリア,カナダ等へも中国人労働者の進出が行われた。1860年(咸豊10)には英清北京条約で,中国人が契約労働移民として自由に海外へ渡航することが認められ,1868年(同治7)の米清バーリンゲーム条約によって海外への往来・居住・入籍の自由が認められて,非人道的な豬仔貿易は廃止された。華僑は日本やロシア領シベリアにも存在するが,彼らの地位が改善されたのは清朝が積極的に諸外国と外交関係を結ぶようになってからである。渡航当初はまったくの無一物であった労働者の中にも,困苦の末しだいに財を蓄え農園,鉱山や商店の経営に成功して財閥となるものも現れた。すると本国と密接な連絡をとり同郷・同族のものを呼び寄せて,現地で強固な団結を作るのが常である。清朝政府もしだいにこのような状況に注目し,各地に中華総商会を組織させて華僑の経済的結束を奨励するようになった。国籍についても本国との連絡を緊密にするため血統主義を採用し,多くの国が属地主義をとっているのと対立した。華僑のほうでは民族意識に目覚めるにつれて,満州民族の清朝に対する反感が高まり,孫文らの革命運動に積極的な協力をするようになる。清末の国情不安,中華民国成立後の軍閥抗争と資本主義諸国の収奪などは,中国南部の人々をいっそう海外移住に駆り立てた。その勢力が強大になり,本国の国民政府を背景として民族主義的な行動をとると,現地の政府との間に政治的摩擦を生じ,あるいは土着人との間に経済的な紛争も起こった。第1次世界大戦後は各地とも中国人の移住を制限する方針をとったが,日中戦争の開始された1937年ごろまでは華僑人口は増加の一途をたどったとみられる。現地における自然増加もあり,今日1500万人と称される東南アジア華僑(全華僑の80~85%)はだいたいこの間に固定化し現在に至っているのである(最多はインドネシアの650万人,次いでタイの610万人など)。
華僑の故郷である中国南部は,言語や風習の違いによって多くの地域的な集団に細分されている。海外に移住した場合も本国そのままの方言や生活形態を固守してきたのであって,広東・福建・潮州・客家(ハツカ)・海南の5方言団に大別するのが普通である。広東とは広東省全体ではなく広州を中心とした珠江下流域,福建は福建省南部の漳州や厦門(アモイ)付近の出身者をさすのであり,細かくいえばそれぞれの中にさらに多くの方言区域が存在する。もともと華僑は生活苦のためやむなく本国を脱出したのであるから,本国の保護が得られないとすれば,相互にことばの通ずる同郷者が集まって助け合うのは当然である。このような同郷者の団体を幇(帮)(パン)という。中国南部では地縁と血縁とが重なって一村すべてが同姓で,祖先神を同じくし共通の信仰をもっているところが少なくない。華僑は団結の中心として主要な都市に事務所を設けており,地縁団体であれば地名を冠して某会館,血縁団体であれば某氏宗祠などと称する。これらは同郷・同族の互助親睦を図るのが目的で,共同墓地の管理,学校の経営をはじめとし,たいていそこには共通の神や祖先をまつっているので,例祭日には全員が集まって懇親会を行う。また公会と称するものがあり,もともと同業組合の事務所をさすが,華僑社会では本国における出身地と職業の種類とが一致することが多いので,会館と公会との機能は簡単に区別しにくい。このような本当の意味での地縁血縁団体が発展して大きくなるほかに,政治的な要求から小地域のものが省単位の連合体を作り,客家が集まって大規模な客属団体を作る。あるいは出身地にはかかわりなく,ただ同姓なるがゆえに大きな同姓団体を構成することさえ行われている。これらの団結組織が華僑勢力の基礎をなしているのだが,誤って秘密結社に引き入れられ,暴力や闘争の犠牲となり賭博やアヘンに身を持ち崩して死んだものはどれほどあるかわからない。
地方的に職業をみると,大きくいって広東人は農園や鉱山などの肉体労働者,福建人は商業・貿易,海南人は家事使用人や喫茶店などの経営,潮州人は食料品の輸出入や精米などというふうに分かれている。しかも,企業としては株式組織による公開的な会社形態をなすことなく,郷党的・同族的な私的構成をとるのが一般的であった。東南アジアでは大財閥として名を知られたものも,商業と軽工業とを中心に事業を拡大したものにすぎず,欧米の近代資本主義的な大産業とは性質が違うわけで,ここに華僑経済発展の限界があったのである。それは農業的な現地人経済と欧米的資本主義経済の中間にあり,さらに同じく華僑間においても封鎖的,孤立的であったといえよう。
第2次世界大戦中,華僑はいたるところで日本軍の圧制を受けて莫大な損害を被った(例えば,〈シンガポール華僑殺害事件〉)。大戦が終わると,東南アジア各地では各民族が独立し,自分たちの国家作りを始めた。華僑の立場はまったく変わり,従来は欧米の植民地において現地の住民を圧迫していたのが,逆に独立した各民族国家の支配を受けねばならなくなったのである。これらの新興国が華僑勢力を抑制しようとするのは当然のことであるが,一方,華僑の本国である中国は大戦後まもなく政治的に大陸と台湾とに分裂してしまった。新興国の多くは台湾側に立ち,国内の共産党排撃を行った。これに対し大陸側の態度も積極的で,その間にはさまれた華僑はきわめて苦しい立場に追い込まれた。しかし,彼らは得意の自衛力を発揮して経済復興に努力し続けてきた。新興国の政策には歩調を合わせ,旧来の二重国籍を捨て現地の国籍を取得させる方針に従って,表面上本国との関連を断ち切るものが多くなっている。このようにして政治・経済上,現地人と同様な権利をもったほうが有利だからである。タイ国では非常に多くのものがその国籍を取得し,正式な意味での華僑は少ないはずなのだが,血統主義からすると華僑の数はその何倍にも上るといわれる。1965年にはマレーシアからシンガポールが独立して一国を形成した。この国は総人口約200万のうち78%がもとは華僑であったが,現在では大部分が中国とは国籍上無関係なシンガポール国人なのである。このような国では,もちろん彼らは華僑でもなく中国人でもなく,自他ともに華人Chineseと称している。シンガポールであればシンガポール華人なのである。しかし,古い伝統のある中国文化を身につけていることを誇りとしているのは確かである。
このような複雑な国際情勢は,新たに中国人の海外渡航を促した。97年の香港返還が迫ると,中国との関係に不安を感じた香港をはじめ台湾,シンガポールの華人たちは,進んでオーストラリア,アメリカ,カナダなどに根拠をおき,資本を投下するとともに,家族の安全と子女の教育を計画するようになった。彼らには知識人が多く,受入れ国からも歓迎され,経済界のみならず政治界でも信頼されている。その太平洋周辺に展開されるたくましい活力は,本国にも大きな影響を与え,むしろ香港やシンガポールの華人資本を導入し,それによって中国の近代化を進めようとする動きが顕著になってきた。
執筆者:日比野 丈夫
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…マレー半島を〈破竹の快進撃〉で南下した日本軍は,42年2月,イギリスの要塞シンガポールを占領した。その直後から,中国語で〈検証〉といわれる日本軍による華僑殺害が行われた。ここでいう〈検証〉とは,特定地域の住民を日本軍が学校などに集合させ,そこで憲兵隊による〈反日分子〉のチェックを行い,〈反日分子〉と断定された人々を山中や海岸に拉致し殺害したことをいう。…
…中国に対する投資をいうが,歴史的に見ると,列国による投資と,華僑による投資とがある。
[列国の対華投資]
18世紀初頭に東インド会社がすでに広東十三行商人に貸付けをおこなっていたが(公行),南京条約を機に,開港場を中心として貿易活動に対する投資が本格化した。…
… 日本は排日ボイコット運動に直接有効な対応をとり得ず,中国政府にその取締りを要求したが,一方においてボイコットが中国政府の了解・指導のもとで対日政策の一手段として運用されているとの認識のもとで,たとえば袁世凱政権の交代,国民政府の打倒などを意図するにいたったのである。対日ボイコット運動【臼井 勝美】
[東南アジアなど]
日本の中国大陸への侵略拡大は,孫文によって〈革命の母〉と呼ばれた華僑にとっても看過できないことであった。東南アジア地域の華僑が,日貨排斥に動いたのは1915年の対中二十一ヵ条要求が明らかになったときに始まる。…
※「華僑」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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