モンゴル帝国,元朝時代の税目。従来の雑多な無定額の徴発を一括して新たに定額銀納に改めた包垜(ほうだ)銀の略称である。モンゴル帝国支配下の華北の民に対しては属領の義務として駅伝維持・軍事協力を目的とする。各種の科差(徭役の物納)が賦課されていた。漢地の軍民統治を委託された漢人世侯は,当時の漢地が通貨(銅銭)の絶対的欠乏状態にあった関係上,代替通貨の機能を果たしていた糸料(絹糸)によってこれらの科差を徴集するのが一般的であった。地方税的性格の濃いこの科差を一括して定額銀納の国税に改める動きは,すでに太宗皇后の監国時代の財務長官アブドゥル・ラーマンの七両包銀制として提出されたが採用されず,彼の失脚後その官を継いだヤラワチにより,1251年(憲宗1)六両包銀制として実施された。六両包銀は55年に4両に減ぜられ(うち2両は銀納,他は物納を許す),さらに世祖中統元年(1260)の中統元宝交鈔発行とともに全額紙幣納(銀1両を以て交鈔2貫に当てる公定レートに従う)に改められて元朝一代を通じ漢地の民戸に課せられた(両税法を施行された江南では宋以来の免役銭がその中に含まれるので科差の2大項目糸料・包銀はともに課せられない)主要公課の一つをなした。
執筆者:愛宕 松男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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…江戸時代には関東の金遣い,関西の銀遣いの慣行が見られ,丁銀,豆板銀は主として関西地方において流通した。丁銀,豆板銀は取引のつど秤量しなければならなかったので,その不便を取り除くために包銀の慣行があった。この包銀には常是包,銀座包,仲間包があった。…
…豆板銀には慶長豆板銀(慶長6年(1601)鋳造)のほか,元禄豆板銀(元禄8年(1695)),宝永二ッ宝豆板銀(宝永3年(1706)),宝永三ッ宝豆板銀(宝永7年),宝永四ッ宝豆板銀(宝永8年),正徳・享保豆板銀(正徳4年(1714)),元文豆板銀(元文1年(1736)),文政豆板銀(文政3年(1820)),天保豆板銀(天保8年(1837)),安政豆板銀(安政6年(1859))の各種が見られる。江戸時代に銀1枚というときは43匁を意味したが,丁銀1枚が43匁未満のときには豆板銀を添えて43匁となし,これを紙に包み,包銀(つつみぎん)として用いる慣行が見られた。これは銀一枚包と呼ばれた。…
…すなわち田賦である税糧が〈丁税地税の法〉と称せられたように,丁男ごとに粟1石もしくは戸ごとに4石の計算で,そのいずれか多量の一方をもって納入額とするというまったく田賦らしからぬ規定を後世まで持続したのであった。他方,役銭の形が普通であるはずの科差においても,これまた戸ごとに糸11.2両(のちに22.4両)・銀6両(のちに4両)を割り当てる糸料・包銀の2種目からなっていて,ともにその特異性が目だつからである。この税糧・科差の法に見られる特異性の中に,実は13世紀中葉(モンゴル帝国~初期元朝)における華北地方の経済事情が反映されているのである。…
※「包銀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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