日本大百科全書(ニッポニカ) 「アリストテレス学派」の意味・わかりやすい解説
アリストテレス学派
ありすとてれすがくは
アリストテレスがアテネ郊外に開いた学園は、近くのアポロン・リケイオスの神殿によって、リケイオンLykeionとよばれた(この名は今日のフランスの高等中学をよぶリセlycéeという名のおこりである)。この学園はまたペリパトスPeripatosともよばれる。それは、本来回廊の意味で、学校の建物と学園全体を一般に意味する語であり、それがアリストテレスの学校の固有名となったものである。しかしこの語は、すでに古代から、講義が園内を散策peripateinしながら行われる習慣によるという解釈が広く流布し、逍遙(しょうよう)学派の名前もそこに由来する。「この学園に学んだもの」が狭義のアリストテレス学派である。
アリストテレスの死後、形而上(けいじじょう)学的な関心は薄れ、個別科学の研究が盛んになる。植物学のテオフラストス、地理学のディカイアルコス、音楽論のアリストクセノス、自然学のストラトンはその代表者である。しかし紀元前1世紀にロドスのアンドロニコスが『アリストテレス全集』を編集刊行してからは、その注釈がこの学派のおもな仕事となった。529年にユスティニアヌス帝が古代哲学の教授を禁じてからのち、研究の中心は東方に移り、アラビア世界に多数の優れた注釈者を生んだ。これが西欧に伝えられ、アリストテレス主義は13世紀のトマス・アクィナスによってカトリック教会公認の哲学となり大いに栄えた。近世哲学の台頭はこれを衰退させたが、19世紀の古典文献学の隆昌(りゅうしょう)とともにアリストテレス注釈はふたたび盛んとなり、新スコラ哲学の登場と相まって、今日もアリストテレス主義を標榜(ひょうぼう)する哲学者は少なくない。
[加藤信朗]