日本大百科全書(ニッポニカ) 「アンタル物語」の意味・わかりやすい解説
アンタル物語
あんたるものがたり
Sīrat ‘Antar
アラブの民衆の間でもっとも人気のある長編のロマンス。バスラの学者アル・アスマイーal-Asma‘ī(828ころ没)が、カリフ、ハールーン・アッラシード(在位786~809)のとき、バグダードの宮廷で、この物語の主人公から直接に聞いた話を書き記したと称しているが、実際は、8世紀から12世紀前半ごろまでの間に、多くの作者の手を経て書き上げられたらしい。骨子は、6世紀にアラビア高原に実在した希代の勇士で優れた詩人でもあったアンタラ‘Antara ibn Shaddādの事績であるが、時代も活動地域も大幅に広げ、潤色の限りを尽くしてある。実在のアンタラはアブス人のシャッダードと黒人の女奴隷との間に生まれ、奴隷として成長したが、軍功により自由の身分となった。父方の叔父の娘アブラに求婚したが、そのために多くの苦難を切り抜けなければならなかった。最後には目的を達したけれども、結局、タイイー人との戦いで死んだ。その詩の一つは名詩選『アル・ムアッラカート』に加えられたほどの詩才の持ち主でもあった。
物語のほうは、イスラム時代に入ってからの500年間にわたるアラブ人およびイスラム世界の転変をも織り込み、約1万の詩をも含ませ、32巻に及ぶ長編となっている。文章も流麗で、民族の心のふるさとというべき内容である。ジャーヒリーヤ時代の古代アラブ人の生活や戦いや恋の物語、ペルシアの歴史や説話、ビザンティン帝国や十字軍との抗争談なども取り入れてある。第一次十字軍の主将の一人ゴドフロア・ド・ブイヨンもジュフラーンという名で登場し、アンタルの遺児の一人となっている。アンタルは仇敵(きゅうてき)ウィズルの毒矢に当たり、愛馬の背上で死を遂げるが、遺児たちはその仇(あだ)を討ち取り、そのなかのジュフラーンはヨーロッパに帰って行く。この物語を民衆に語る講釈師たちはアナーティラとよばれた。18世紀末からはヨーロッパにも知られたが、まだ全部の翻訳は現れてはいない。
[前嶋信次]