日本大百科全書(ニッポニカ) 「イラン・イラク戦争」の意味・わかりやすい解説
イラン・イラク戦争
いらんいらくせんそう
イラン・イラク戦争は、1980年9月22日、イラク空軍機によるイラン領土攻撃によって開始された。戦争の直接の引き金は、9月17日、イラクがイラン前国王パーレビ(パフラビー)との間で締結したアルジェ協定(両国国境線を定めたもの。1975年締結)の無効を宣言したことであった。イラク軍は緒戦で、イラン西部国境を突破し、南部の港湾都市フニーンシャフル(ホッラムシャフル)を占領、さらにイラン最大の石油基地アバダーンを包囲するなど、電撃的にイラン領内深く進撃した。だが戦線は以後しだいに膠着(こうちゃく)状態に陥った。81年反攻に転じたイランは、9月にはイラク軍のアバダーン包囲を打破。82年5月、フニーンシャフルを奪回するや、戦局はイラン側に有利となった。
ところで、この戦争は二国間戦争でありながら、一方で、全中東の政治情勢に及ぼすイラン革命の影響力を食い止めようとする周辺諸国のねらいとも結び付いていたといえよう。イスラム教シーア派住民が国民の半数を占め、絶えず少数民族のクルド人を弾圧してきたイラクにとり、正義とイスラム教徒大衆の解放を唱えるイスラム・イラン革命は、大きな衝撃であった。しかも、イラン革命は、現実主義的イスラムの論理や秩序のもとで暮らすアラブ諸国のイスラム教徒においても、一様に共感を喚起した。メッカ寺院襲撃事件(1979年12月)、旧ソ連軍の侵攻と同時に活発化したアフガニスタンのイスラム教徒ゲリラ抵抗運動(1979年末以降)、エジプトのサダト大統領暗殺事件(1981年10月)、あるいは、イスラエルの占領に徹底抗戦を続けるレバノンのイスラム教徒ゲリラ活動(1983年6月以降)などは、いずれもイラン革命の場合と同様の、急進的イスラム変革志向に貫かれていた。
戦争が開始された当時、イランは、金融的・経済的締め付けによるイランの孤立化を図る欧米およびアラブ産油国に対し、アメリカ大使館占拠で対抗していた。旧王制下で中東最大の軍事拠点を確保してきたアメリカにとっても、イラン革命打破は重要課題だったのである。イラクが侵攻に際し計画した、イラン内アラブ住民の蜂起(ほうき)は起きず、イスラム諸国会議、パレスチナ解放機構(PLO)などによる、「イスラム教徒」「イスラエルに対決する同胞」などの枠組みでの和解の試みも失敗したように、イラン懐柔策はすべて挫折(ざせつ)した。イラン側の戦局の有利と、エジプト・イスラエル国交樹立などの影響からくるイスラム住民の反体制的急進化が重なるなかで、湾岸諸国は、1982年5月、軍事的・経済的結束を固め、イラク支援強化を打ち出した。戦争は、全中東の政治情勢に大きく左右されて泥沼化し、停戦交渉は難航したが、88年、国連の停戦決議を両国が受諾、いちおうの終結をみた。
[藤田 進]