イランイラク戦争(読み)イランイラクセンソウ

デジタル大辞泉 「イランイラク戦争」の意味・読み・例文・類語

イランイラク‐せんそう〔‐センサウ〕【イランイラク戦争】

国境問題、ペルシア湾岸地域の覇権などをめぐってイランイラクとの間に起こった戦争。1980年9月のイラク軍のイラン侵攻によって開戦。1988年8月に停戦。イ‐イ戦争。イラ‐イラ戦争。

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共同通信ニュース用語解説 「イランイラク戦争」の解説

イラン・イラク戦争

国境地帯の領有権をめぐる対立などから、1980年9月、イスラム革命後の混乱が続くイランをイラクが奇襲攻撃、88年8月の停戦発効まで、両国で計約100万人の死傷者が出たとされる。少数民族クルド人は、イスラム教スンニ派のイラクのフセイン政権に対する反乱を繰り返しており、政権はクルド人勢力とシーア派のイランとの連携を警戒。イラクは87年にイランのサルダシュトを化学兵器で攻撃、88年にはイラク北東部のハラブジャでも化学兵器でクルド人約5千人を殺害した。(サルダシュト共同)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「イランイラク戦争」の意味・わかりやすい解説

イラン・イラク戦争
いらんいらくせんそう

イラン・イラク戦争は、1980年9月22日、イラク空軍機によるイラン領土攻撃によって開始された。戦争の直接の引き金は、9月17日、イラクがイラン前国王パーレビ(パフラビー)との間で締結したアルジェ協定(両国国境線を定めたもの。1975年締結)の無効を宣言したことであった。イラク軍は緒戦で、イラン西部国境を突破し、南部の港湾都市フニーンシャフル(ホッラムシャフル)を占領、さらにイラン最大の石油基地アバダーンを包囲するなど、電撃的にイラン領内深く進撃した。だが戦線は以後しだいに膠着(こうちゃく)状態に陥った。81年反攻に転じたイランは、9月にはイラク軍のアバダーン包囲を打破。82年5月、フニーンシャフルを奪回するや、戦局はイラン側に有利となった。

 ところで、この戦争は二国間戦争でありながら、一方で、全中東の政治情勢に及ぼすイラン革命の影響力を食い止めようとする周辺諸国のねらいとも結び付いていたといえよう。イスラム教シーア派住民が国民の半数を占め、絶えず少数民族のクルド人を弾圧してきたイラクにとり、正義とイスラム教徒大衆の解放を唱えるイスラム・イラン革命は、大きな衝撃であった。しかも、イラン革命は、現実主義的イスラムの論理や秩序のもとで暮らすアラブ諸国のイスラム教徒においても、一様に共感を喚起した。メッカ寺院襲撃事件(1979年12月)、旧ソ連軍の侵攻と同時に活発化したアフガニスタンのイスラム教徒ゲリラ抵抗運動(1979年末以降)、エジプトのサダト大統領暗殺事件(1981年10月)、あるいは、イスラエルの占領に徹底抗戦を続けるレバノンのイスラム教徒ゲリラ活動(1983年6月以降)などは、いずれもイラン革命の場合と同様の、急進的イスラム変革志向に貫かれていた。

 戦争が開始された当時、イランは、金融的・経済的締め付けによるイランの孤立化を図る欧米およびアラブ産油国に対し、アメリカ大使館占拠で対抗していた。旧王制下で中東最大の軍事拠点を確保してきたアメリカにとっても、イラン革命打破は重要課題だったのである。イラクが侵攻に際し計画した、イラン内アラブ住民の蜂起(ほうき)は起きず、イスラム諸国会議、パレスチナ解放機構(PLO)などによる、「イスラム教徒」「イスラエルに対決する同胞」などの枠組みでの和解の試みも失敗したように、イラン懐柔策はすべて挫折(ざせつ)した。イラン側の戦局の有利と、エジプト・イスラエル国交樹立などの影響からくるイスラム住民の反体制的急進化が重なるなかで、湾岸諸国は、1982年5月、軍事的・経済的結束を固め、イラク支援強化を打ち出した。戦争は、全中東の政治情勢に大きく左右されて泥沼化し、停戦交渉は難航したが、88年、国連の停戦決議を両国が受諾、いちおうの終結をみた。

[藤田 進]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イランイラク戦争」の意味・わかりやすい解説

イラン=イラク戦争
イラン=イラクせんそう
Iran-Iraq War

1980年9月から 88年8月までイランとイラクとの間に行われた戦争。 1979年2月のイスラム革命によりイランの最高指導者となったホメイニ師は,周辺アラブ諸国のシーア派イスラム教徒に対しても,抑圧者の政権を倒してイスラムの原理に基づく政治体制に変革するよう呼びかけた。これは湾岸産油諸国の支配者層に脅威を与え,とりわけ人口の過半数をシーア派が占めるイラクのバース党政権にとっては大きな脅威となった。さらに,革命後のイランは各勢力間の抗争や少数民族の反乱によって極度の混乱状態に陥っており,79年 11月アメリカ大使館占拠事件を契機に国際的にも孤立状態にあった。このような状況のなか,80年9月 22日にイラク軍がイランに大々的に侵攻しイラン=イラク戦争が開始された。イラクのフセイン大統領のねらいは,シーア派革命のイラクへの波及を防ぐとともに,この機会にかねてから係争となっていた領土 (特にシャットルアラブ川全部への支配権) を奪い返し,湾岸地域における自己の主導的地位を確立することにあった。 87年7月,イラン軍のバスラ攻略作戦にイラク軍が必死で防戦するなか,即時停戦を求める国連安保理決議 598が採択された。イラクはこれを受諾したが,あくまで戦争責任者フセイン大統領の処分を求めるイランは受諾を拒否した。 87年夏以降,クウェートタンカー護衛を契機に米,英,仏,ソ連などの海軍力がペルシア湾内に展開,特にアメリカの軍事介入により戦争は国際化の様相を呈した。 88年に入るとイラクが攻勢に転じ,イランの石油施設や都市へのミサイル攻撃を強化するとともに,イラン軍に占領されていた領土の大半を奪回した。このためイランもホメイニ師の決断によって同年7月,ついに決議 598の受諾に踏切り,8月 20日,停戦が成立した。この戦争ではイラン軍の人海戦術やクルド人の反抗に悩まされたイラクが,化学兵器の使用に踏切ったことが特徴的である。8年間にわたる双方の死傷者の数は 150万人をこえ,経済的にも莫大な損害をこうむった。

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百科事典マイペディア 「イランイラク戦争」の意味・わかりやすい解説

イラン・イラク戦争【イランイラクせんそう】

1980年6月ころから散発していた,シャット・アルアラブ川の領有をめぐるイラン・イラクの国境紛争は,9月22日イラク空軍の本格的な攻撃を契機についに全面戦争化した。その後,戦況はほとんど膠着(こうちゃく)状態に陥った。この戦争の進展の過程で,イラン革命の拡大を懸念した大国はイラクを支援した。さらに,アラブ諸国の足並みが乱れ,イラン側にシリア,リビアが,イラク側にヨルダンが接近し,サウジアラビアなどがイラクを間接的に支援する態勢をとった。1988年8月,国連安保理の調停により停戦した。死傷者は約100万人以上といわれる。またこの戦争は交戦国双方がミサイルを撃ち合うという,史上初めてのミサイル戦争でもあった。
→関連項目アバダーンイラク国際連合シリアスカッド中東フセイン湾岸協力会議

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知恵蔵 「イランイラク戦争」の解説

イラン・イラク戦争

イラン、イラクの両国間で、1980年から88年までの8年間にわたって行われた戦争。発端は80年のイラクによるイラン侵略。やがて戦局が逆転、82年以降はイランがイラク領土へと侵攻した。イラクの体制の崩壊がイラン革命の拡大につながると懸念した周辺諸国や地域外の大国は、イラクを支援。結局、88年夏までに国連安保理の停戦決議を両国が受諾して、戦争が終結した。この戦争では双方が、ミサイルで相手国を攻撃した。第2次大戦末期にドイツがロケット兵器で連合国を攻撃した例はあるが、交戦国の双方が長距離ミサイルを撃ち合うという前例はなく、初歩的な形ながら史上初めてのミサイル戦争であった。このパターンは、この戦争の停戦から3年後に戦われた湾岸戦争でも継承された。多国籍軍は巡航ミサイルでイラクを攻撃し、イラクはスカッド改良型ミサイルで反撃した。またこの戦争でイラクが国際法に違反して化学兵器を大量かつ頻繁に、ほぼ公然と使用した。しかし国際社会は何の制裁措置もとらなかった。以来、化学兵器などの大量破壊兵器の拡散阻止が国際社会の重要な課題となっている。この戦争でのイランの勝利を米国を中心とする国際社会は許さず、イランの革命輸出路線をくじき、革命をイラン一国に封じ込めることに成功した。しかしそのために、国際社会は強大なイラク軍の育成に手を貸すこととなり、これがイラクのクウェート侵攻の伏線となった。イラン・イラク戦争は90年に始まる湾岸危機・戦争への序曲であった。

(高橋和夫 放送大学助教授 / 2007年)

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旺文社世界史事典 三訂版 「イランイラク戦争」の解説

イラン−イラク戦争
イラン−イラクせんそう
Iran-Iraq War

1980〜88
イラクとイランとの間で行われた戦争
両国間にはペルシア・アラブという民族対立が長く続いており,さらに宗教問題として,イラク(スンナ派の国)は国内に多数のシーア派がおり,1979年のイラン革命の影響を恐れていた。1975年のアルジェ協定でシャット−ル−アラブ川を国境としたが,その周辺の石油利権が絡み,さらにクルド人の自治運動に関する問題などアラブの盟主をめざすフセイン大統領が開戦を決意,1980年イラク軍がイランに侵攻した。この戦争は双方がミサイル攻撃を行った史上初の戦争であり,また双方が相手国のタンカーを攻撃した結果,世界の石油事情が悪化した。1988年両国が国連安全保障理事会の決議を入れ,イラクが国境線などで譲歩して停戦が成立した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「イランイラク戦争」の解説

イラン‐イラク戦争(イラン‐イラクせんそう)

1980年9月,イラク軍のイラン侵攻により開戦。イランによるイスラーム革命の輸出を警戒する湾岸諸国や西側諸国の後押しを受け,短期決戦を指向したイラクに対し,イランは人海戦術で応じ泥沼化。82年にはイランがイラクに逆侵攻。87年,国際連合は即時停戦と国境線までの即時撤退を求める安保理決議598を採択。イランがこれを受諾したことにより88年8月20日停戦。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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