インド天文学(読み)インドてんもんがく

改訂新版 世界大百科事典 「インド天文学」の意味・わかりやすい解説

インド天文学 (インドてんもんがく)

インダス文明において天文学と言いうるほどのものが存在していたとは考えられないが,古い伝統をもつ27または28の星宿のいくつかがインダス文明にまでさかのぼり得ても不思議ではなく,事実そのような方向から印章文字を解読する試みが近年なされている。アーリヤ人がベーダ文明を築いた後は,その祭式主義が新月祭,満月祭などの日時決定を目的とする暦法の発達を促し,六つのベーダ補助学のひとつ《ベーダーンガジョーティシャ》の成立をみた。現在伝えられている最も古い文献は《リグ・ベーダ》の系統に属するもので,前5世紀ごろの成立であると言われる。この書ではもっぱら太陽と月の運動と星宿に関心が向けられており,5惑星についての記述はみられない。暦法に関する多くの概念はこの時代に成立し,後の天文暦法にも受け継がれている。また1朔望月を30等分したものである〈ティティ〉のようにバビロニアの影響と考えられる要素もいくつかある。この時代の暦法要素を伝える文献として仏教の《摩登伽経(まとがきよう)》,ジャイナ教の《スールヤパンナッティSūryapannatti》,カウティルヤの《アルタシャーストラ》などがある。

 後1世紀に貿易風が発見され海上貿易が盛んになると,西方の天文学と占星術が伝えられるようになる。その端緒となったのは占星術書《ヤバナ・ジャータカ》である。この書は100年ごろおそらくアレクサンドリアにおいてギリシア語で書かれていたものが,150年ごろインド西部のウッジャインあたりでサンスクリットに翻案されたものである。大部分を占めるのは当時流行し始めたばかりの占星術であるが,最終章にみられる惑星運動論は典型的なバビロニアのそれである。その後3世紀ほどは,このようにギリシアとバビロニアの両要素が共存していたが,しだいにギリシア要素が比重を増していった。この間の文献についてわれわれが知ることができるのは,6世紀にバラーハミヒラが編集した《五天文学書綱要》のおかげである。バビロニアとギリシアでは天体の運動の表現の仕方が対照的である。前者が惑星の見・伏・留・逆行などの位置を関数的に表現しようとしたのに対し,後者は天体の運動を幾何学的モデルによって表現することに努力をはらった。インドではバビロニアの天文学は十分理解されず,主流になることもなかったが,興味深いことに,20世紀はじめまで南インドに伝えられていた〈バーキャ〉と呼ばれる一種の月の位置表はバビロニア天文学の理論と数値をそのまま踏襲している。499年にアールヤバタが著した《アールヤバティーヤ》によって数世紀にわたるギリシア天文学の吸収とインド化の時代は終わり,インド内部での独自の歴史が始まる。ただしインド天文学がギリシア系であるという場合注意しなければならないのは,そのギリシア的要素がプトレマイオス(後2世紀)によって完成されたものではなく,それ以前のものであるということである。たとえばメネラオス(後100年ごろ)が発見しプトレマイオスがみごとに応用した球面三角法はインドには伝えられず,その代りに〈アナレンマ〉と呼ばれる一種の投影図法が広く用いられている。その他ギリシア要素のおもなものをあげると,黄道座標,極黄経と極黄緯,三角法,周転円と離心円,惑星緯度論,同心球論などがある。これらの多くはヒッパルコス(前2世紀)にまでさかのぼることができるであろうが,ギリシア側の文献がほとんど現存していないので,逆に最近ではインド天文学の研究によってプトレマイオス以前の天文学を復元するという試みがなされている。

 インド古典天文学のひとつの特徴は,惑星の平均運動の常数を巨大な周期における対恒星回転数として表現するということである。たとえば《アールヤバティーヤ》によれば,1ユガにおける太陽の回転数(すなわち恒星年数)は432万であり,地球の回転数(アールヤバタは地球の自転を認めていた)は15億8223万7500である。したがって地球と太陽の合すなわち暦日数は,これらの差(15億7791万7500)になる。月と惑星についても同様に平均運動の値が与えられる。〈シッダーンタ〉と総称される包括的天文学書は,平均運動の計算起点としてカリ・ユガ暦元(ユリウス暦の紀元前3102年2月18日に相当)を用いる。いっぽう計算の簡略化を目的とする〈カラナ〉文献では,近矩(きんく)(近い過去のある時点)が暦元として採用される。アールヤバタ以後多数の天文学者がさまざまな天文学書をあらわし,また占星術の要請により〈パンチャーンガ〉と呼ばれる天体位置暦が無数に作成された。これらはその天文常数のとり方によって次の五つの学派に分類することができる。(1)アールヤ学派 《アールヤバティーヤ》に基礎をおく。(2)アールダラートリカ学派 アールヤバタの失われた作品に基づく。アールヤ学派が1日の始まりを日の出とするのに対し,この学派は夜半から数える。ブラフマグプタの《カンダカードヤカ》(暦元665年3月23日)が代表的作品である。この作品は初期イスラム天文学に大きな影響を与えた。(3)ブラーフマ学派 ブラフマグプタの《ブラーフマスプタ・シッダーンタ》(628)に代表される。12世紀にインド古典天文学を完成させたバースカラ2世の《シッダーンタ・シローマニ》もこの学派に属する。(4)サウラ学派 8世紀ごろ改編された新しい《スールヤ・シッダーンタ》に基づく。(5)ガネーシャ学派 16世紀初頭のガネーシャの著作による。これらの学派はだいたい決まった地方に分布し,互いの交流はほとんどなかった。一般にインドの天文学者たちはきわめて保守的で根本的な刷新を望まなかった。また観測の果たした役割も非常に小さかった。イスラム天文学からの影響は11世紀ごろから少しずつ現れ,ジャイシン王(1686-1743)の治世には最高潮に達し,巨大な天文台が建設され,アラビア語文献の翻訳もなされたが,まもなく近代西欧天文学にとって代わられてしまった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「インド天文学」の意味・わかりやすい解説

インド天文学
インドてんもんがく
Indian astronomy

古代インドの天文学は,ギリシアの天文学のように理論的に高度のものではなく,もっぱら暦法と星占いを目的として発達した。その素朴な宇宙観は,日本で須弥山 (しゅみせん) 説の基をなした。天空を分けて 27宿もしくは 28宿とし,1年を 360日と定めるなど,その内容は,漢訳された仏典によってうかがい知ることができる。のちにギリシア天文学の影響下に,数理的な発展もみられ,5世紀末にはアリアバータ,7世紀にはブラフマグプタらが活躍した。地球の自転を説いた天文書も現れたが,確たる論理の発展はみられず,10世紀以後は衰退した。

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