キエフ・ロシアの叙事文学の代表的作品。南ロシアの諸公のひとりイーゴリIgor'(1151-1202)が1185年にチュルク系遊牧民ポロベツ族に対して行ったステップへの遠征を題材としている。戦いに敗れて捕らえられたイーゴリがロシアへ帰還したのち,遅くとも87年までに成立した。作者の名前と身分は不明。作者は上記史実の文学的記述に加えるに,父祖の公たちの輝かしい事跡を回顧し,イーゴリの敗北と異民族の侵入という災いをもたらす原因となった諸公間の内紛を非難しつつ,〈ルーシの地のため〉奮起するよう個々の公を名ざしながら呼びかける。次いでイーゴリの后ヤロスラーブナが,風と太陽とドニエプル川に向かってわが身の不幸を嘆き,夫への助力を求める抒情的な場面が描かれる。その願いが聞き届けられたかのように,イーゴリは脱出に成功し,公と従士への祝福の言葉とともに物語がとじられる。全体として詩的なリズムに富んだスタイルをもち,アニミズム的な自然観にもとづく口承文学特有の表現とともに,比喩や形容の点で高度な修辞技法を駆使している。長いあいだ埋もれていて18世紀末に発見され,1800年に現代語訳とともにテキストが刊行された。しかしその唯一の伝来写本も,12年のモスクワ大火で焼失して現存しない。19世紀以後のロシアの詩人たちによって,しばしば現代語に訳されている。少数意見ながら偽作説がある。なお,ボロジンの歌劇《イーゴリ公》は,この物語に取材したものである。
執筆者:中村 喜和
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1185年ノヴゴロド・セーヴェルスキー公イーゴリ2世が行った,遊牧民ポロヴェツ人に対する遠征を主題にした中世ロシアの記念すべき叙事詩。作者不詳。12世紀に書かれたというが,18世紀末に存在が知られた。偽作説がある。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…モノマフ公のような文武両道の英主も人気があった。その反面1185年ポロベツ人の捕虜になって脱走,生還したイーゴリ公を神の名において祝福する《イーゴリ軍記》のような作品も生まれた。長兄の刺客に無抵抗で殺され,十字架の死に至る従順さを貫き通したボリスとグレープの兄弟(ウラジーミル聖公の子)の物語も好まれた。…
…それ以来ロシア,ハンガリー,ビザンティン帝国にたびたび侵入したが,とくに11世紀末,先住のペチェネグ族を滅ぼしてからは,ロシアとの敵対的関係が激化した。ロシアの英雄叙事詩《イーゴリ軍記》は,このポロベツ人とロシア人との戦いをテーマにしたものである。1220年代に侵入を開始したモンゴル人の前に敗れ,一部はハンガリー方面に逃れて,そこで17世紀ごろまで独自の生活様式を維持していた。…
…それゆえ11世紀から13世紀半ばに至る200年間は〈キエフ時代〉と呼ばれている。この時期の代表的作品は《原初年代記》(《過ぎし年月の物語》)と《イーゴリ軍記》(《イーゴリ遠征物語》)である。前者は11世紀半ばからキエフの修道士たちによって書きつがれ,12世紀の10年代に完成したもので,さまざまな資料や異教時代の伝説を取り入れ,文学的価値の高い部分が多い。…
※「イーゴリ軍記」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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