ウクライナ政変

共同通信ニュース用語解説 「ウクライナ政変」の解説

ウクライナ政変

ウクライナで親ロシアのヤヌコビッチ大統領(当時)が2013年11月に欧州連合(EU)との「連合協定」締結の準備凍結を表明。野党が反発し、首都キエフの独立広場を占拠した。治安部隊の発砲を受けたデモ隊の犠牲者は14年2月20日前後をピークに計107人に上った。同22日にヤヌコビッチ氏が首都を逃れ、野党勢力が大統領府などを掌握し政権は崩壊。ロシアはロシア系住民が多いクリミア半島に部隊を派遣し3月に編入を強行、ウクライナ東部2州でも親ロ派勢力が武装蜂起し現在も一部の実効支配を続ける。(キエフ共同)

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知恵蔵 「ウクライナ政変」の解説

ウクライナ政変

2004年ウクライナで起きた「オレンジ革命」に始まる一連政変のこと。国内の親欧米派と親ロシア派の対立が続き、14年2月には、ヤヌコビッチ大統領が国外逃亡し、解任されるなど混迷を深めている。
ウクライナは東ヨーロッパにあり、ヨーロッパの穀倉地帯として知られる一方で、天然資源にも恵まれ重化学工業が発達している。国土の中央を流れるドニエプル川をはさんで東西でロシア系住民の比率に大きな差があり、親ロシアの東部と親欧米の西部が対立してきた歴史を持つ。今回の政変や混乱も、これを背景としている。
ウクライナは13世紀以降、近隣諸国の属国となっていたが、1917年のロシア革命を機に独立、内戦を経てウクライナ社会主義ソビエト共和国が樹立。その後、ソビエト連邦を構成する共和国の一つとなった。この時期にウクライナ人の民族的傾向に対する、スターリンらの大規模な弾圧が行われた。91年には、ソ連崩壊によりウクライナが新たな主権国家として独立。2004年の大統領選挙で、与党のヤヌコビッチ(親ロシア派)と野党のユシチェンコ(親欧米派)の一騎打ちとなった。ヤヌコビッチの得票率がユシチェンコを上回ったが、この選挙に不正があったと西部を中心とする民衆がヤヌコビッチ政権を糾弾する「オレンジ革命」が起き、再投票が行われて政権が交代した。
次の10年の大統領選挙ではヤヌコビッチが当選。ヤヌコビッチ大統領は、13年にEU(欧州連合)との政治・貿易協定の仮調印まで済ませたが、ロシアとの関係に配慮し調印は見送った。これに対して、EU寄りの野党勢力から反発が起こり、大規模な反政府デモが発生するなど国内は騒乱状態になった。14年2月に入っても事態は収まらず、ヤヌコビッチは首都キエフを脱出。ウクライナ議会はヤヌコビッチ大統領の解任を議決し、トゥルチノフ(親欧米派)が大統領代行となった。しかし、ヤヌコビッチは政変による解任は憲法違反だとし、自らを合法的国家元首だと主張している。
14年3月、ロシアのプーチン大統領は、クリミア半島に軍事介入することを決めた。クリミア半島はウクライナの南端にあり1954年の帰属替え以前はロシア領で、住民の約6割をロシア系が占めている。核保安サミットでオランダのハーグに集まったG7各国は首脳会議を開き、ロシアに対する制裁を話し合い、ロシアのソチで行われる予定であったG8への不参加などを決めた。各国は、クリミアはウクライナに返すべきと主張するが、それぞれの国の事情(エネルギー供給、北方領土問題など)によって温度差があった。そんな中、14年3月11日、クリミア自治共和国はウクライナからの独立とロシアへの編入を目指すクリミア独立宣言を表明。東部各地で、これに呼応する親ロシア派による地方政府・警察庁舎などの占拠が拡大した。4月17日には米国・ロシア・EUとウクライナの4者で、親ロシア派の武装解除など緊張緩和を進めることを合意。しかし、武装解除がほとんど進んでいない状態で、ウクライナ新政権が親ロシア派に対して強硬なテロ対策作戦を展開し、死傷者が出るなど緊迫が高まっている(14年5月1日時点)。

(金谷俊秀  ライター / 2014年)


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「オレンジ革命」のページをご覧ください。

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