北方領土問題(読み)ほっぽうりょうどもんだい

共同通信ニュース用語解説 「北方領土問題」の解説

北方領土問題

ロシア択捉島国後島色丹島歯舞群島を占拠し、日本が返還を求めている問題。1945年8~9月、当時のソ連軍による侵攻が発端。日ソ両政府は56年、平和条約締結後に色丹と歯舞を引き渡すと明記した共同宣言に調印した。2018年11月、当時の安倍晋三首相はプーチン大統領との会談で、共同宣言を基礎にした交渉加速で一致したが、協議は停滞。ロシアは22年2月のウクライナ侵攻後、日本の制裁に反発し、平和条約交渉の中断を発表した。岸田政権は「不法占拠」だと非難し、返還を求めている。(北京共同)

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百科事典マイペディア 「北方領土問題」の意味・わかりやすい解説

北方領土問題【ほっぽうりょうどもんだい】

南千島の帰属をめぐる日本とソ連,ロシア間の問題。この問題はサンフランシスコ講和条約で日本が放棄した千島の範囲が不明確であることに由来する。歴史的には,明治政府がロシア帝国と1875年に締結した樺太・千島交換条約によって,千島列島全体が日本領となっていたが,第2次世界大戦直後の1945年にソ連領としてロシア連邦共和国サハリン州に編入された。その根拠は,1945年2月のヤルタ会談で南サハリンのソ連への返還および千島列島のソ連への引渡しを取り決め,ソ連軍はこの合意に基づき,1945年8月6日,日ソ中立条約を一方的に破棄し対日参戦したことにある。極東軍司令官A.M.ワシレフスキーは日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏した後の8月15日に千島の占領命令を発し,千島列島北部から占領を始め8月31日にウルップ島に上陸,9月3日までに択捉島,国後島,歯舞諸島,色丹島を占領した。1951年9月のサンフランシスコ講和条約では〈日本国は千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄する〉と規定している。ただし,これに対し吉田茂全権代表はこの〈千島列島〉が北方四島を含まないことを各国代表団に注意喚起している。ソ連代表は同条約に千島列島および南サハリンがソ連に帰属する旨の明文がないことを理由にサンフランシスコ講和条約への調印を拒否,この問題は日ソ間の平和条約交渉に移された。1955年に開始された日ソ交渉では,北方四島の一括返還を求める日本と,歯舞諸島・色丹島の返還を譲歩の限度とするソ連との間に合意が成立せず,1956年10月,両国はとりあえず日ソ共同宣言によって国交を回復,領土問題を含む平和条約の締結については交渉を継続することとなった。同宣言には,ソ連は〈歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する〉,ただし〈平和条約が締結された後に現実に引き渡されるもの〉と記された。平和条約はその後締結に至らず,4島返還問題とともに,ソ連崩壊後はロシアとの間で懸案となってきた。この問題は1961年以来両国間でたびたび取り上げられ,日本は南千島(国後(くなしり),択捉(えとろふ),歯舞(はぼまい),色丹(しこたん)の4島)は歴史的にみて日本領土,としているが,千島列島のどこまでを主張しうるかという点では歴史研究者のなかにも異なる意見がある。ロシアは歯舞,色丹を除く千島問題は解決済と主張,対立が続いている。1991年10月には北方4島について,日本人と同島に住むロシア人との間でのビザなし渡航制度が成立したが,日本は引き続き全島返還の交渉をロシアと進めている。しかし,近年ロシアは4島の開発を積極的に推進し,2010年9月,メドベージェフ大統領自らが,旧ソ連・ロシアの首脳としては初めて国後島を訪問,さらに四島への国際的投資を韓国,中国に呼びかけるなど強硬姿勢に転換した。2012年3月に二度目の大統領職に就任したプーチンは北方領土問題解決に前向きと伝えられてきたが,新たな方針を提示するか注目されている。2012年にはロシア政府は,尖閣諸島をめぐる問題で強硬姿勢をとる中国と,第2次世界大戦の戦勝国同士という名分で共同歩調を取る姿勢も打ち出しており,交渉は難航が予想される。第二次安倍政権は安倍首相がプーチンとの〈信頼関係〉を強調し自らの任期内に北方領土問題の解決を目指すと自信を見せた。しかし,2014年に勃発したウクライナ危機で,プーチンはウクライナ領クリミア半島のロシア編入を宣言,歴史的な経過を根拠にロシアに属するものとし,これに反対する欧米とロシアは先鋭な緊張状態に入った。安倍政権の北方領土問題に関する外交政策が問われる事態となっている。→千島列島ウクライナ問題
→関連項目安倍晋三沖縄開発庁日ソ共同宣言領土問題

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北方領土問題」の意味・わかりやすい解説

北方領土問題
ほっぽうりょうどもんだい

第2次世界大戦終結直後の 1945年8~9月に,侵攻したソビエト連邦軍の占領下に置かれた日本の固有の領土である北方四島(歯舞群島色丹島国後島択捉島)の返還問題。当時四島には日本人約 1万7000人が住んでいたが,ソ連は 1946年に自国領として編入し,1948年までに日本人全員を強制退去させた。1956年の日ソ共同宣言で,両国間の戦争状態の終結,外交関係の回復などが盛り込まれたが,領土問題に関しては意見の一致をみず,今後も平和条約締結交渉を継続し,締結後に歯舞群島と色丹島の二島が日本に引き渡される旨が明らかにされた。しかし,1960年の日米安全保障条約の改定延長を機に,ソ連側は,領土問題は存在しないとの立場をとり始めた。冷戦終結直前の 1991年,ミハイル・ゴルバチョフ大統領が訪日し,日ソ共同声明において初めて四島の名称が明記され,領土問題の存在が認められた。ソ連解体後の 1993年にはロシアのボリス・エリツィン大統領が訪日し,東京宣言において,法と正義の原則を基礎として四島の帰属問題を解決し,平和条約を締結することが明記された。さらに,1997年のクラスノヤルスク首脳会談で日ロは平和条約を 2000年までに締結することで合意,翌 1998年の川奈首脳会談では橋本龍太郎総理大臣から,択捉島とウルップ島の間に最終的な国境線を引くことを前提に,当面四島におけるロシアの施政を認めるという大幅譲歩案が提示されたが,ロシアの同意を得られないままエリツィンは退陣した。2001年,ウラジーミル・プーチン大統領と森喜朗総理大臣がイルクーツクで会談し,1956年の日ソ共同宣言を平和条約締結交渉の基本的文書とすること,そのうえで 1993年の東京宣言に基づいて四島の帰属問題を解決することが声明の中に盛り込まれた。歯舞群島,色丹島の二島返還に固執するロシアに対し,日本側からは二島の返還交渉を先行させ,残る国後島,択捉島の帰属の交渉を並行的に行なう提案が出されたが,国後島,択捉島返還の断念につながりかねないと日本国内で反発が強まった。2003年の小泉純一郎総理大臣の訪ロでは,かつての日ソ共同宣言,東京宣言,イルクーツク声明などを交渉の基礎とし諸問題の早期解決をはかる日ロ行動計画が発表された。ところが 2006年以降,日本は毎年のように総理大臣が交代し,両国の交渉は停滞した。その間の 2010年,ドミトリー・メドベージェフ大統領が国後島を公式訪問,日ロ関係は一気に冷え込んだ。2013年,安倍晋三総理大臣が日本の首相として 10年ぶりとなるロシア公式訪問に踏み切り,大統領に返り咲いたプーチンと平和条約締結に向けた交渉の加速化で合意。2016年のプーチン大統領訪日時には,北方領土の未来像のなかから解決策を探るという新たなアプローチに基づき,四島における漁業,海面養殖,観光などの共同経済活動に向けた「特別な制度」についての協議開始で合意をみた。
北方四島での人的往来や交流は,北方墓参,自由訪問,四島交流の枠組みで実施されている。元島民やその家族による北方墓参は 1964年以降,人道的見地から断続的に行なわれ,約 10年の中断を経て 1986年に再開された。同じく人道的見地からの元島民やその家族による故郷への自由訪問は 1999年に始まった。日本人と四島在住のロシア人による四島交流は 1992年に始まり,元島民と家族,返還運動関係者,報道関係者らの参加が認められている。また,北方四島の住民支援事業として,患者の受け入れ,医師・看護師などの医療研修,人道支援物資の供与が行なわれているほか,防災分野における協力,生態系保全分野における協力事業も実施されている。

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知恵蔵 「北方領土問題」の解説

北方領土問題

北方領土問題をめぐって、1956年10月の日ソ共同宣言は、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)を日本に引き渡すことに合意したが、その後の日ソ関係は91年のゴルバチョフ大統領訪日まで停滞した。後継国家ロシア連邦のエリツィン大統領と細川政権とは、93年10月に東京宣言で、北方四島の帰属問題を解決すべきことを宣言。97年11月の橋本・エリツィン非公式首脳会談では、2000年までに平和条約を締結するよう努力するというクラスノヤルスク合意がなされた。98年4月、橋本首相は国境線画定という提案を行った。99年末のエリツィン辞任を受けてプーチン新大統領と森首相との2000年9月の東京での交渉に続き、01年3月25日には日ロ平和条約交渉がイルクーツクで行われた。プーチン政権は、1956年の日ソ共同宣言の有効性を確認した。このため歯舞、色丹の二島の返還交渉と、国後(くなしり)、択捉(えとろふ)の交渉をどのように関連づけて進めるかが議論の中心となった。イルクーツク声明は、56年の二島返還と、四島帰属を決着させて平和条約を結ぶ東京宣言の接点を模索したものであり、両者を並行して解決する方針を確認した。川口外相は03年5月、56年宣言、東京宣言、イルクーツク声明を交渉の基盤とすると述べたが、ロシア側は相互受け入れ可能な解決を主張した。05年11月にプーチン大統領が訪日し、小泉首相と会談したが、交渉に実質的な進展はなかった。06年8月には、この海域でロシアによる日本のカニ漁船拿捕事件が起き、日本人1人が死亡した。漁民が死亡する事件は五十数年ぶり。プーチン大統領は同年9月、中ロが04年秋に国境問題を最終解決した例を引き合いに、妥協による解決への模索を示唆した。

(下斗米伸夫 法政大学法学部教授 / 2007年)

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「北方領土問題」の解説

北方領土問題(ほっぽうりょうどもんだい)

第二次世界大戦中,アメリカはソ連の対日参戦を求め,1945年2月のヤルタ協定によって,日本領である南サハリンの返還,クリル諸島(千島列島)の引き渡しを約束した。ソ連は8月9日参戦したのち,南サハリン,クリル諸島を占領し,46年にこの併合を宣言した。51年のサンフランシスコ講和条約で日本代表はこれら領土への主権の放棄を認めた。放棄しないことを主張したのは歯舞(はぼまい)諸島,色丹(しこたん)島についてであった。その後日本政府はこの条約に調印しなかったソ連との平和条約交渉で,55年8月ソ連が歯舞諸島,色丹島の引き渡しを表明すると,南千島の択捉(えとろふ)島,国後(くなしり)島の返還をも要求するとの態度を表明した。ソ連はこれを認めず,交渉は難航した。56年10月16日,日ソ共同宣言が調印され,国交が樹立されたが,ソ連は平和条約が調印されたのちに,歯舞諸島,色丹島を引き渡すと約束するにとどまった。61年以降日本政府は,改めて4島は固有の領土であり,サンフランシスコ講和条約で放棄したクリル諸島(千島列島)に含まれていないとして,返還を要求し始めた。この4島が北方領土とされる。問題はソ連のペレストロイカによっても解決しなかった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「北方領土問題」の解説

北方領土問題
ほっぽうりょうどもんだい

歯舞 (はぼまい) 諸島・色丹 (しこたん) ・国後 (くなしり) ・択捉 (えとろふ) 島の帰属問題
1945年のヤルタ会談での秘密協定により,ソ連は千島の領有を主張し,日本は ‘51年のサンフランシスコ平和条約で千島列島を放棄したが南千島は固有の領土として返還を要求。'56年の日ソ共同宣言で歯舞諸島・色丹島は日ソの平和条約締結後,日本に引き渡されるとした。しかし'60年1月日米新安全保障条約が調印されると,ソ連は在日外国軍が撤退しない限り返還しないと声明。問題は未解決である。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「北方領土問題」の解説

北方領土問題
ほっぽうりょうどもんだい

歯舞(はぼまい)群島・色丹(しこたん)・国後(くなしり)・択捉(えとろふ)島の千島4島帰属をめぐる日本・ロシア連邦間の領土問題。日露通好条約にもとづいて4島の返還を主張する日本政府と,ヤルタ秘密協定を根拠に領有を正当化するロシア連邦政府とが対立している。またサンフランシスコ講和会議において日本が放棄した千島列島に北方4島が含まれるか否かについても見解がわかれている。1956年(昭和31)の日ソ共同宣言では平和条約締結後に歯舞・色丹の引渡しが同意されたが実現していない。

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改訂新版 世界大百科事典 「北方領土問題」の意味・わかりやすい解説

北方領土問題 (ほっぽうりょうどもんだい)

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デジタル大辞泉プラス 「北方領土問題」の解説

北方領土問題

岩下明裕による評論。副題「4でも0でも、2でもなく」。日本とロシアの間の領土問題の妥協点を探る。2005年刊。翌年、第6回大仏次郎論壇賞受賞。

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旺文社世界史事典 三訂版 「北方領土問題」の解説

北方領土問題
ほっぽうりょうどもんだい

千島列島

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世界大百科事典(旧版)内の北方領土問題の言及

【千島列島】より

…55年2月7日(安政1年12月21日)の日露和親条約によって両国の国境は,択捉・ウルップ両島間の水道に定められ,樺太・千島交換条約により千島全島が日本領となった。【榎森 進】
【北方領土問題】
 日本の北方領土の範囲について,国会の〈北方領土問題の解決促進に関する決議〉(1979年2月)では,歯舞諸島,色丹(しこたん)島,国後島,択捉島の4島とされており,日本共産党を除く各党がこの決議に賛成した。共産党は〈千島問題についての日本共産党の政策と主張〉(1969年3月)で上記4島のみならずウルップ島以北の島々も加えるべきであるとしているが,いずれの党もこの4島は日本の正当な領土であり,ソ連から返還されるべきだという立場に立つため,それがソ連(現ロシア連邦)との間の懸案問題となっている。…

※「北方領土問題」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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