改訂新版 世界大百科事典 「エテリア」の意味・わかりやすい解説
エテリア
Etaireía
1814年南ロシアのオデッサで設立されたギリシア人の秘密結社の通称。正式名称は友人協会Philikí Etaireía(またはEtaireía ton phílikon)。ギリシア語でエテリアは協会,結社を意味する普通名詞であるため,当初,近代ギリシア解放思想の父とされるリガスが18世紀末にウィーンで設立した結社と同一視されたこともあるが,両者に組織的な継承関係はない。オスマン帝国が衰退しはじめる17世紀後半からバルカンのキリスト教徒の国外移住が著しく,19世紀初めにはとくにロシアへの移住者がふえ,オデッサがその最大のコロニーになった。18世紀末から各地のギリシア人コロニーに結社がつくられたが,1814年にはオデッサでN.スクファス(1779-1818,小商人),E.クサントス(1772-1852,商館の手代),A.ツァカロフ(1788-1851,モスクワの富裕なギリシア商人のせがれ)が,祖国の救済を目的とする秘密結社を設立した。彼らはフリーメーソンやカルボナリの影響をうけ,秘儀的な入社式や厳格な位階制を設けたが,その組織網は18年以降,東欧からオーストリア,イタリアの諸都市へもひろがった。20年,最高指導者にロシア陸軍少将A.イプシランディスが選ばれて蜂起計画をすすめ,当初はモレア(ペロポネソス)半島へ直行して蜂起する予定だったが,結局ワラキア,モルドバのドナウ両公国を経てバルカンを南進し,諸民族を加えた一斉蜂起の策がとられた。21年1月にはエテリアと通じていたT.ブラディミレスクがワラキアで農民蜂起をおこした。同年2月末イプシランディスはモルドバへ入り,エテリア支持者のモルドバ公スツォスの協力をえて蜂起宣言を布告し,ロシア,ドナウ両公国の各地から集まったギリシア人を主体とするバルカン諸民族の志願者からなる蜂起軍(約7000)を編成した。ところが神聖同盟のライバハ会議(1821)でロシア皇帝が蜂起を否認したためロシア軍の介入を期待していた指導部は動揺し,さらにワラキア農民軍とのあいだに戦術上の対立が生じたため,ワラキアのドラガシャニDrǎgǎşaniでのトルコ軍との決戦に敗北。イプシランディスはオーストリア領へ逃れ,勇敢に抗戦した一部の残党も鎮圧されたが,モレアをはじめギリシア各地ではこれに呼応して蜂起がおき,ギリシア解放戦争の合図となった。
執筆者:萩原 直
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報