オーストリアハンガリー帝国(読み)オーストリアハンガリーテイコク(その他表記)Österreichisch-Unganische Monarchie ドイツ語

デジタル大辞泉 の解説

オーストリアハンガリー‐ていこく【オーストリアハンガリー帝国】

普墺ふおう戦争に敗北したオーストリアが、ハンガリーマジャール人貴族と妥協して王国の建設を許し、オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねて、1867年に成立した二重帝国。第一次大戦の敗北とともに1918年に解体。

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精選版 日本国語大辞典 の解説

オーストリア‐ハンガリー‐ていこく【オーストリアハンガリー帝国】

  1. 一八六七年から一九一八年までの連合帝国。普墺戦争の大敗でオーストリア領内のハンガリー人が独立を要求し、別個の政府、国会を認めさせたが、オーストリア皇帝がハンガリー国王を兼ねた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

オーストリア・ハンガリー帝国
おーすとりあはんがりーていこく
Österreichisch-Unganische Monarchie ドイツ語

1867年のアウスグライヒ(和協)成立から1918年の崩壊に至る時期のハプスブルク帝国をさす。1866年のプロイセン・オーストリア戦争の結果ドイツから締め出されたオーストリアでは、ドイツ人の中央集権が危機に直面するとともに、領内の民族運動が一段と激化した。そこでオーストリアの支配層は、事態を収拾するため、やむなくハンガリーのマジャール人貴族に妥協の手を差し伸べ、1867年ハンガリー王国の建設を許し、これをオーストリアと対等の地位に引き上げ、オーストリア皇帝がハンガリー国王を兼ねるオーストリア・ハンガリー二重王国が成立した。これがアウスグライヒで、その結果、両国は外交、軍事、一部の財政をともにするだけで、自国内ではそれぞれ別個の政府と議会をもち、独自の政治を行うことになった。以後オーストリアとハンガリーの関係は親密の度を増し、20世紀初頭の短期間を除いて協調が続いたが、依然被支配者の地位にとどめられたスラブ系その他の諸民族の不満が高まり、反抗を強めていった。

 しかし、ハンガリーとオーストリアでは多少事情が違っていた。ハンガリーでは特権的地位を占めるマジャール人が、他の諸民族(ルーマニア人、南スラブ人、スロバキア人)に厳しい抑圧的態度で臨み、議会は非民主的で、マジャール人貴族に独占されていた。オーストリアでも政治の支配権はドイツ系住民の手にあったが、従属諸民族も若干の政治的発言権を与えられ、1907年には普通選挙制が施行された。とはいえ、政府と従属諸民族の間には依然紛争が絶えず、新たにおこった民主主義運動や社会主義運動もこれと深く関係していた。民族運動の先頭にたったのはチェコ人で、民族資本の飛躍的な発達が政治闘争を急速に成長させ、彼らはベーメンボヘミア)がかつて独立王国であったことを主張し、学校、法廷、行政機関などでチェコ語をドイツ語と同等の地位に置くことを要求し、ドイツ人と激突した。さらに汎(はん)スラブ主義の影響で、ロシアに接近しようとする傾向も現れ始めた。ガリツィアにはポーランド人の貴族とルテニア人の貧農が住み、後者は親ロシア的で、ガリツィアの政治を左右するポーランド人に憎悪を抱いていた。そのためポーランド人貴族はむしろハプスブルク家と提携する気配を示したが、彼らも独立の希望をもっていたから、事情しだいでウィーンに反抗した。帝国南部の南スラブ人の間では、クロアチア人をハンガリーと同等の地位に高めて三重王国をつくる構想を支持する者が多かったが、東方のセルビア国と一体化して南スラブ人の国家をつくろうとする運動もあった。

 オーストリア・ハンガリー帝国は、20世紀に入るといっそう深刻な危機に直面した。とくに注目されるのは、国境外にある民族国家(セルビア、ルーマニア、イタリア)が帝国内の同系民族の合体を要求し始めたことで、その急先鋒(せんぽう)は、汎スラブ主義を背景とするセルビアであった。1908年オーストリア・ハンガリーが先手を打って、セルビア人の多いボスニア・ヘルツェゴビナを併合したことは、セルビアに大きな衝撃を与え、数々の秘密結社が組織されて、反オーストリア運動を始めた。もっとも、当時の民族闘争は感情的対立といった面が強く、1914年以前には、領内諸民族のなかで真に帝国の解体を唱えていた者はごく少数で、ハプスブルク帝国の枠内で自民族の地位の向上を図ろうとする傾向が大勢を占めていた。しかし、帝国が外交上ドイツと密着して(ドイツ・オーストリア同盟)バルカン半島汎ゲルマン主義を推し進めたことは、国際対立を激化させ、1914年オーストリア・ハンガリー皇太子がサライエボでセルビア人民族主義者に暗殺された事件をきっかけにして、第一次世界大戦が起こった。戦争の進展とともにオーストリア・ハンガリーのドイツ帝国への従属が深まり、国内の諸矛盾が表面化するにつれて、領内諸民族の間には独立運動が高まり、ついに1918年、敗戦とともに帝国は崩壊し、国土は分裂した。

[矢田俊隆]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説

オーストリア=ハンガリー帝国
オーストリア=ハンガリーていこく
Empire of Austria-Hungary

1867年のアウスグライヒによってオーストリアとハンガリーに成立した帝国 (1867~1918) 。プロシア=オーストリア戦争の結果,ドイツからの敗退によって,オーストリアの国内情勢は急迫し,67年フランツ・ヨーゼフ1世のもと,オーストリア・ドイツ人はハンガリーのマジャル人貴族と妥協してハンガリー王国の建設を許し,オーストリア皇帝がハンガリー王位を兼ねる同君連合の二重帝国の成立をみた。以後オーストリアは,産業国として発展するために,87年外見的立憲主義を採用したが,工業化の進歩と国内諸政党の勢力増大の影響のもとに,1907年には普通選挙が施行された。しかも民族問題は,オーストリアにとって依然最大の悩みであり,ドイツ人とスロベニア人,チェコ人との間の抗争が絶えなかったが,政府は議会を停止してこれらの要求にこたえようとしなかった。外交上では,三国同盟の一員として,バルカン半島で汎ゲルマン主義を推進し,その強引な政策は 08年ボスニア=ヘルツェゴビナ併合となって現れ,ロシアとセルビアの恨みを買った。次いで 12~13年のバルカン戦争により国際関係はますます激化,ついに第1次世界大戦を招くにいたった。 18年軍の敗退と,国内異民族の離反は,オーストリアを単独休戦条約調印に追込み,同時に革命が起ってハプスブルク家は倒れ,共和制が宣言された。 19年9月,サンジェルマン条約により,オーストリア=ハンガリー帝国は正式に崩壊して,ハンガリー,チェコスロバキアがそれぞれ独立し,ポーランド,ルーマニア,ユーゴスラビアにも土地を割譲したので,オーストリアは領土も戦前の4分の1の小国となり,軍備制限と多額の賠償義務を負うにいたった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 の解説

オーストリア‐ハンガリー帝国(オーストリア‐ハンガリーていこく)
Österreichisch-ungarische Monarchie

1867年のアウスグライヒで成立したオーストリアハンガリーの国制。ハプスブルク帝国とも呼ばれる。オーストリア帝国とハンガリー王国が共通の君主と共通の外務,陸軍,財政の3省によって結びついた「二重君主国」で,共通業務以外の内政はそれぞれ独自の内閣と議会によって行われた。もともとオーストリア帝国は大略11の民族からなる多民族国家であったが,第1の支配勢力であるドイツ人と第2のハンガリー人(マジャル人)が支配圏を分けあって,それぞれ他民族を支配する体制をつくったといえる。したがって両国ともに領内に複雑な民族問題をかかえており,これが国制の民主化,議会主義化の問題や,工業化の進展に伴う社会主義運動の展開ともからみあって,政治を容易に安定させなかった。外交的にはバルカン半島への進出を図ってセルビア,ロシアとの対立を招き,これが第一次世界大戦の導火線となった。1918年,敗戦により諸民族が分裂,君主制も倒れていくつかの民族共和国が成立した。

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旺文社世界史事典 三訂版 の解説

オーストリア−ハンガリー帝国
オーストリア−ハンガリーていこく
Österreich−Ungarn

1867〜1918
普墺 (ふおう) 戦争後の1867年,オーストリアのドイツ人とマジャール人(ハンガリー人)の妥協(アウスグライヒ)によって成立した多民族国家。オーストリア皇帝がハンガリー王を兼任したので,二重帝国ともいう
オーストリアは普墺戦争に敗れ,ドイツの統一に除外されてのち,領内のスラヴ諸族の反抗を抑えるため,ハンガリー貴族(マジャール系)との妥協を成立させハンガリー王国の建設を許し,オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねる同君連合の帝国を樹立した。君主・外交・財政・軍事を共同にするほかは,おのおの別個の政府と議会を持って独立の政治を行うことになり,マジャール人の宿望は一応達成された。この国の外交方針は,ロシアのパン−スラヴ主義的進出に対抗するため,ドイツとの提携を密にすることにあり,1879年には両国間に軍事同盟(独墺同盟)が結ばれた。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合問題からバルカンの事態は険悪となり,1914年サライェヴォ事件によって第一次世界大戦が起こった。1918年オーストリアは単独で休戦条約に調印するが,同時に国内に革命が起こってハプスブルク家が倒れた。そして共和政が宣せられるとともに,ハンガリーは分離し,スラヴ諸民族もそれぞれ独立した。

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