ポーランドの経済学者。経済理論の主流派の外にあって,独学で修得した経済学をもって先進資本主義経済の動態や社会主義計画経済,第三世界について論じた。ケインズ《一般理論》の公刊(1936)に先立つ1933年,マルクス再生産表式を枠組みに国民所得の決定を論じてケインズ革命を予告したが,その巨視的動学理論は,現実的な企業理論を基礎に,社会階級間の所得分配を理論の統合部分に置いて経済プロセスの動きを説明するもので,ケインズ体系よりも一般的かつ現代資本主義分析に適切とされる。36年祖国を出て55年帰国するまで,スウェーデン,イギリス,カナダでの研究生活を経て46年から国連に勤務するが,冷戦下のマッカーシズムに遭遇して抑圧を受けるや帰国して祖国の長期経済計画に取り組む。しかしスターリニズムの伝統下にあるゴムルカ政権の投資に偏重する経済計画と相いれず,61年には経済顧問の地位も退く。以降,中央計画学校の教授として後進の指導に当たるが,その人生は幾多の失意を経験するものであった。しかし正統派経済学に対するその包括的な挑戦は,ケインズ革命を徹底せんとしたポスト・ケインジアンの展開を鼓舞する淵源を成すものとなった。業績のエッセンスを集め自ら編纂(へんさん)した《資本主義経済動態論集》(1971)がある。
執筆者:青木 達彦
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ポーランドが生んだ世界的な経済学者。ポーランドのウージに生まれる。グダニスクの工業大学で工学を学んだが、在学中より経済学に関心を抱き、1929~35年の間、ワルシャワの景気・価格研究所で国民所得論を研究、33年に発表した『景気循環への一試論』で、資本主義経済循環の数理経済モデル(いわゆるカレツキ・モデル)の創始者となった。35年これをもとにした『景気循環の巨視的動態論』を発表したが、これはマルクスの再生産論から出発しながら、ケインズとは別個に、後の「ケインズ革命」に通じる思想を展開した画期的な業績であった。36年スウェーデンに、ついでイギリスに渡り、40年オックスフォード大学統計研究所員となる。戦後46年から54年まで国連事務局経済部次長を務め、55年ポーランドに帰り、政府顧問、計画委員会顧問、経済審議会副議長、コメコン代表などを歴任、ランゲとともに戦後経済の計画化に力を尽くした。66年アカデミー会員となる。61年以降ワルシャワの中央計画・統計大学で教鞭(きょうべん)をとり、社会主義経済成長論の完成に努めたが、68年春の修正主義攻撃に名を借りた同僚の追放に抗議していっさいの公職から引退し、70年4月17日、失意のうちに死去した。
[佐藤経明]
『カレツキ著、宮崎義一・伊東光晴訳『経済変動の理論』(1958・新評論)』▽『カレツキ著、竹浪祥一郎訳『社会主義経済成長論概要』(1965・日本評論社)』
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…ただし,資本集約度が著しく異なる二つの産業での独占力を比較するのには,ラーナーの独占度は不適切で,投下資本への収益率を利用しなければならない。 ラーナーの独占度はのちに,寡占産業での企業間競争を考慮して個別企業の独占力を指数化しようとしたロスチャイルドKant Wilhelm RothschildやパパンドリューAndreas George Papandreouの研究や,国民経済についての尺度として国民所得の分配の説明に用いようとしたM.カレツキの研究などによって継承された。独占【岩崎 晃】。…
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