カンテミール(英語表記)Antiokh Dmitrievich Kantemir

改訂新版 世界大百科事典 「カンテミール」の意味・わかりやすい解説

カンテミール
Antiokh Dmitrievich Kantemir
生没年:1708-44

ロシア詩人モルドバ領主で学者としても知られた父D.カンテミールとともにトルコの支配をのがれ,幼時にロシアに移住した。早くから詩才をあらわし,ラテン語やフランス語からの翻訳を発表して,古典や同時代の西欧文学の紹介につとめる。ピョートル1世没後の反動期の中で,啓蒙に反対する保守派を風刺する詩を書いて注目をひいた。《理性に寄せて,あるいは学問の誹謗者に》(1729),《恥知らずな貴族の嫉妬と傲慢に寄せて》(1730)などが手書本で社交界に広まった。しかしその鋭い筆鋒が災いして,1732年イギリス駐在公使に任ぜられた。これは実はていのいい追放であった。38年からはフランス公使に転じ,没するまでパリに住む。辛辣さの中にも高い気品をそなえた風刺詩が彼の本領で,その作品は彼の生存中ロシアでの印刷が許されず,イタリア語,フランス語,ドイツ語などの翻訳のほうがさきに出版された。
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カンテミール
Dimitrie Cantemir
生没年:1673-1723

モルドバ公コンスタンティン・カンテミールの子。A.D.カンテミールの父。人質として17年間イスタンブールで過ごす間にギリシア正教総主教座アカデミーでギリシア・ラテンの古典学と西欧の哲学思想を学び,オスマン文人との交際によりトルコ,アラビアペルシア語通じ,哲学的小説やトルコ音楽論等を著した。スルタンの信頼をえて1710年モルドバ公位についた彼は,翌年4月ロシアのピョートル1世と秘密同盟を結び,7月にスタニレシュティの会戦でロシア軍とともにトルコ軍と戦ったが敗れ,以後皇帝の側近として終生ロシアにとどまった。亡命後の著述に《モルダビア誌》(1716),《イスラム宗教制度》(1722)等があるが,主著《オスマン王朝興亡史》(1715-16完成)は英・仏・独各国語に翻訳され高い評価をえた。1714年以後ベルリン・アカデミー会員。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カンテミール」の意味・わかりやすい解説

カンテミール
Cantemir, Dimitrie

[生]1673.10.26. ヤシ
[没]1723.8.23. ハリコフ
ルーマニアの文学者,政治家。ロシアの詩人 A.カンテミールの父。モルドバ公国の王家に生れ,成人するまで人質としてオスマン帝国で教育を受けた。 1710年にモルドバ公国の王位につき,ロシアと結んで国の独立のためオスマン帝国軍と戦ったが敗北し,11年にロシアへ亡命。ピョートル大帝の側近の一人として公爵に叙せられた。ラテン語で書かれ,のちに各国語に訳された『オスマン帝国興亡史』 Historia incrementorum atque decrementorum aulae Othomanicae (1716) ,モルドバの歴史,地理,民俗の研究書『モルドバ国誌』 Descriptio Moldaviae (16) などを著わした。

カンテミール
Kantemir, Antiokh Dmitrievich

[生]1708.9.21. コンスタンチノープル
[没]1744.4.11. パリ
ロシアの詩人,外交官。ロシアの古典主義文学の創始者の一人。主著『風刺詩I-IX』 Satiry I-IX (1729~39執筆,62刊) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「カンテミール」の意味・わかりやすい解説

カンテミール
かんてみーる
Антиох Дмитриевич Кантемир/Antioh Dmitrievich Kantemir
(1708―1744)

ロシアの詩人。父はトルコ政府に追われてロシアに亡命し、ピョートル1世によって貴族に列せられたモルダビア王。早くから文才を現して開明派と交わったが、1730年代にはその鋭い才気のためかえって宮廷から遠ざけられ、後半生は外交官としてイギリス、フランスなどに駐在し、パリで没した。代表作は『おのが理性に寄す』(1729)をはじめとする9編の風刺詩で、ピョートルによって始められた近代化に反対する保守的な支配層に向けられたもの。ロシア国内でそれらが印刷されたのは作者の死後である。ロシア古典主義文学の創始者の一人。

[中村喜和]

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世界大百科事典(旧版)内のカンテミールの言及

【モルドバ】より

…モルドバにオスマン支配から脱却する機会を与えたのは,17世紀後半に始まるオーストリアとロシアの南進政策であった。1710年スルタンの推薦によってモルダビアの公位に就いたD.カンテミール(在位1710‐11)は,11年4月ロシアのピョートル大帝と秘密軍事同盟を結んでオスマン帝国と戦ったが,同年7月プルート河畔のスタニレシュティの戦でオスマン・タタール連合軍に包囲されて降伏し,カンテミールは捕虜になった。その後の条約によりカンテミールはロシアへ亡命し,ピョートル大帝に厚遇されたが,以後ロシアとの関係は深められていった。…

【ルーマニア】より


[16~19世紀]
 現存するルーマニア語最古の文献は16世紀前半のもので,16世紀後半には聖書をはじめ宗教文献の翻訳・出版が盛んになった。17~18世紀には,人文主義的教養を身につけ国際的舞台で活躍したミレスク(ロシア名スパファリー),カンテミールのような文人が出,また多くの年代記が編纂された。トランシルバニアでは,18世紀後半からラテン系民族としての自覚と民族文化の復興を呼びかけた言語学者・歴史家のグループが活躍し,彼らはトランシルバニア学派と呼ばれた。…

※「カンテミール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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