キャンプ・デービッド合意(読み)キャンプデービッドごうい

百科事典マイペディア の解説

キャンプ・デービッド合意【キャンプデービッドごうい】

1978年9月カーター米大統領の仲介でサーダートエジプト大統領とベギンイスラエル首相が米国のキャンプ・デービッドで交わした和平合意。中東和平の枠組みとエジプト・イスラエル平和条約の枠組みからなる。後者にもとづいて1979年両国は平和条約を締結,1982年にはシナイ半島のエジプト返還が実現した。しかし,前者においてはパレスティナの民族独立権や交渉参加権にふれていなかったためアラブ諸国は反発。エジプトはイスラエルとの単独和平を進める結果となり,アラブ連盟の資格を停止され(1990年復帰)孤立した。また,サーダート大統領はイスラムジハード団に暗殺された。しかし,この時に謳われた〈領土と平和の交換〉は,その後の1991年のマドリード和平プロセスの大原則となった。→パレスティナ問題
→関連項目イスラエルエジプトガリリクード

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改訂新版 世界大百科事典 の解説

キャンプ・デービッド合意 (キャンプデービッドごうい)

1978年9月に,中東和平問題をめぐりエジプト,イスラエルの間で交わされた合意。1977年11月のエジプト大統領サーダートのイスラエル訪問および12月のイスラエル首相ベギンのエジプト訪問は,中東和平の新しい幕開けを告げるものであったが,その後和平およびパレスティナ問題をめぐる対立が生じたため,両国の交渉は行き詰まった。このため,アメリカのカーター大統領は,78年9月,サーダート,ベギン両首脳をメリーランド州のキャンプ・デービッドに招き,9月5日から17日まで3首脳会談が行われた。その結果,〈エジプトとイスラエルの平和条約締結のための枠組み〉〈中東における平和の枠組み〉の二つの合意文書が発表された。前者は両国間の平和条約,関係正常化を定め,79年3月26日のエジプト・イスラエル平和条約として実現をみる。一方,後者はヨルダン川西岸,ガザ地区の将来を規定するが,このうち自治について,エジプト,イスラエル間に解釈の相違があるほか,PLO(パレスティナ解放機構)をはじめアラブ世界が強く反発しており,交渉は難渋している。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説

キャンプデービッド合意
キャンプデービッドごうい
Camp David Agreement

1978年9月 17日,中東和平に関しエジプトのサダト大統領,イスラエルのベギン首相,アメリカのカーター大統領がアメリカ,メリーランド州の大統領山荘キャンプデービッドで成立させた合意。 77年 11月のサダト大統領のエルサレム訪問により中東和平問題に新たな展開が期待されていたが,イスラエルの非妥協的態度のため進展は望み薄となった。そこでカーター大統領がサダト,ベギン両首脳をキャンプデービッドに招き,精力的に調停に努めた。合意は「中東和平のための枠組み」と「エジプト・イスラエル平和条約締結のための枠組み」の2つから成り,後者はイスラエルがエジプトとの平和条約締結と引換えに 1967年の第3次中東戦争で占領したシナイ半島をエジプトに全面的に返還するという内容であった。しかし前者ではパレスチナ占領地の住民に一定の自治を認めることが合意されたにとどまり,パレスチナ占領地からのイスラエル軍の撤退とパレスチナ人の民族自決権の問題が棚上げにされたため,パレスチナ人および他のほとんどのアラブ諸国がこの合意に反対した。この合意達成により,サダトとベギンの2人にノーベル平和賞が授けられた。 79年3月にはエジプトとイスラエルとの間に平和条約が調印され,両国の外交関係が樹立されたが,エジプトは自国利権のためにアラブの大義を裏切ったとして他のアラブ諸国から国交を断絶され,サダト自身 81年 10月,国内のイスラム過激派勢力によって暗殺された。

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