クリム・ハン国(読み)クリム・ハンこく(英語表記)Krym Khanstvo; Krymskaya Orda

  • Kirim
  • くりむはんこく

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

キプチャク・ハン国の創始者バトゥ (抜都)の弟トハ・チムールの後裔が,1430年頃クリミア半島クルイム半島)に建設したモンゴル地方政権。 14世紀後半,封建制の発達で分封領主の権力が強化された結果,キプチャク・ハン国は分裂兆候を示しはじめ,15世紀前半その領内にカザンクリムのハン国が分離,独立した。クリム・ハンはモスクワ大公イワン3世 (大帝)と結び,キプチャク・ハン国を攻撃,そのあとにアストラハン・ハン国を成立させた。3ハン国の並立となったが,イワン4世 (雷帝)がカザン,アストラハンを征服したので,クリム・ハン国が最後のモンゴル帝国残存政権となった。その後,モスクワ,トルコの圧迫を受けながらも 18世紀後半まで命脈を保ち,1774年第2次ロシア=トルコ戦争後クチュクカイナルジ条約でトルコの支配から離脱した。しかしまもなく内紛に陥り,これを口実に介入したエカテリーナ2世 (大帝)によって,83年ロシア領に併合された。領内の住民の大部分はチュルク系イスラム教徒。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

1426年ごろチンギス・ハンの長子ジュチの血を引くハジ・ギライが、衰退したキプチャク・ハン国(金帳ハン国)から自立してクリミアに建てた国。1475年以後オスマン・トルコ帝国の保護国となり、その後援のもとにロシア、ポーランドと争って、領土をクリミア半島からウクライナ南部に拡大した。住民はトルコ系でクリミア・タタールとよばれ、首都のバフチサライは黒海北岸におけるイスラム文化と商業との中心地であった。同系のカザン、アストラハンの2ハン国が16世紀に相次いで滅亡したのちも、約2世紀にわたって金帳ハン国の正統な継承者としての地位を保持したが、南下するロシアの圧力には抗しきれず、1783年ロシア帝国に併合された。

[小松久男]

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