フランスの政治家。9月28日バンデー県生まれ。初め医を業としたが、パリ・コミューン(1871)直前、パリ第18区(労働者街モンマルトル)長に選ばれて内戦回避に努力したのが、政治の世界に入る第一歩となった。1871年代議士に当選。コミューン派弾圧後の社会主義者を欠く議会内にあって最左翼の急進社会主義派(正確には社会主義的急進派)に投じた。彼の政治理念は「民主的共和制下のフランス国家」「大革命以来の民主的共和制の故郷であるフランス国家の強化、防衛」であった。彼の敵は、対外的にはアルザス・ロレーヌを奪取したドイツであったが、対内的には第一に、初心のジャコバン的伝統・理念を忘却して、民主的改革を怠る保守化した旧急進派(日和見(ひよりみ)主義派とよばれた)であり、この意味でポアンカレとは終生の政敵関係に立った。1880年代、この派の諸内閣を雄弁の力一つで次々に倒していき、「虎(とら)」の異名をもって恐れられた。国内第二の敵は、秩序を乱す暴力的労働運動と、それと結んだ「祖国をもたぬ」社会主義であった。ブーランジェ事件(1887~1889)、ドレフュス事件(1894~1899)における共和制防衛、人権擁護の闘士と、峻烈(しゅんれつ)な労働運動弾圧者が、彼の内に同居していたといえる。
第一次世界大戦末期、クレマンソーのこの本領が発揮された。当時フランス国民は長い戦いに倦(う)み、兵士の間に厭戦(えんせん)・反戦思想が広がり、前線は崩壊に瀕(ひん)していた。大統領ポアンカレは、1917年11月あえて政敵クレマンソーを、その鉄腕に期待して首相に任命した。クレマンソーもよくこれにこたえ、参謀総長に信頼するフォッシュを据えて国務と統帥を緊密化し、カイヨーに代表される和平論者を投獄して反戦運動を徹底的に弾圧し、前線では逃亡・抗命兵士を即決裁判で銃殺に処するなど、強硬方策をとり、ついにフランスを勝利に導いた。しかし平和条約では、英米の反対にあってライン川左岸の獲得にも、ドイツの徹底的弱体化にも失敗し、不本意な調印を余儀なくされた。1920年大統領選に敗れて政界を去った。1929年11月24日パリにて死去。
[石原 司]
フランスの政治家。医学を学んだが,普仏戦争敗戦後,帝政崩壊の混乱期に,パリのモンマルトル区長として政界に入り,1871年下院議員に当選した。当時極左派とされた急進社会主義派に属し,〈フランス革命の完成〉を叫び,民主的共和制実現への努力を怠る〈日和見主義〉派諸内閣を〈議論の暴力〉とまでいわれた弁舌で倒壊させ,〈虎〉とあだ名されて恐れられた。また80年代後半のブーランジェ事件や90年代から1900年代にかけてのドレフュス事件では共和制防衛,人権の擁護に立ち上がった。ドレフュス事件に際して彼の新聞《オロール》(〈あけぼの〉の意)がゾラの〈余は弾劾す〉の一文をのせておおいに世論に訴えたことは有名である。一方,クレマンソーは彼の愛してやまぬ共和国フランスを守るには第1に軍備を強化すること,第2にフランス人がひとしく祖国愛にめざめて団結していることが必要と考えた。反軍・反戦主義者,社会主義者,過激な労働運動家に対しては徹底した敵意を抱き,1906-09年にわたる彼の内閣は労働運動弾圧にのみ終始した感さえある。第1次大戦末期再び首相となったときも,和平運動を容赦なく抑圧した。大戦末期の17年11月,フランスは長期化した戦争に疲れ,戦線でも兵士が反戦・敗戦意識にとりつかれており,これ以上の戦争継続は不可能と思われた。このときクレマンソーを首相に起用したのが,保守主義者であったためにクレマンソーの政敵と目されていた大統領ポアンカレである。クレマンソーは〈余は戦う〉と宣言して峻烈な戦争指導を行った。腹心のフォッシュを参謀総長に任じて政界と統帥部との意志疎通を改善し,戦意に欠ける兵士を銃殺などの厳罰に処して戦線を立て直し,ついにフランスを勝利に導いた。しかしこのような独裁的なやり方は戦後のフランスには通用せず,20年大統領の座を争ったが,敗れ去り,その政治生活に幕をおろした。
執筆者:石原 司
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1841~1929
フランスの政治家。1870年極左派の代議士となってより急進社会党を指導した。保守派の内閣を雄弁をもって次々と倒し,「虎」とあだ名された。ドレフュス事件でも保守派と闘ったが,首相(在任1906~09,17~20)となるや国権派に転じ労働運動を抑圧した。第一次世界大戦末期には,首相として強力な独裁的指導でフランスを勝利に導き,パリ講和会議では,アメリカ,イギリスに対抗して対ドイツ強硬政策を唱えた。
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…そのうち日本は首席全権として西園寺公望を送ったがアジアと太平洋問題の討議のみに関与し,イタリアはアドリア海沿岸のフィウメの帰属問題のみに執心を示したので,他の懸案はすべて米英仏三大国によって決せられた。 ドイツ問題ではウィルソンの理想主義は強硬な対独懲罰主義者のフランス首相G.クレマンソーに押し切られた。イギリス首相ロイド・ジョージは両者を仲裁すべき立場にあったが,戦時中に鼓舞激励した国民の期待を裏切れず,結局フランスの主張に同調した。…
…それ以外の22国は,〈特殊的利害をもつ交戦国〉として区別され,それぞれの国に関係のある会議にだけ招かれるにとどまり,しかもその際にも実質的な発言力は与えられなかった。国境画定をめぐってルーマニアの代表が不満を述べたてたときにフランス首相のクレマンソーが,〈いったい誰のおかげで戦争に勝ったと思っているのか〉とどなりつけた一幕は,このような力関係を物語るものである。しかも,〈五大国〉のうち日本はほとんど発言せず,イタリアは途中で代表のV.E.オルランドが帰国してしまうというようなことで,事実上,日伊両国は脱落してしまう。…
※「クレマンソー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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