ラテンアメリカが生んだ傑出した革命家。アルゼンチンのロサリオ市の中流家庭の生まれで、幼児のときから喘息(ぜんそく)の持病に苦しめられた。ブエノス・アイレス大学で医学を学ぶかたわら、ラテンアメリカの各地を旅行してこの地域の現実について見聞を広め、大学で学位を得たのちは中米のグアテマラに行き、そこで進歩的なアルベンス政権がアメリカのCIAに援助された反革命軍の手で転覆されるのを目撃した。その後メキシコに行き、キューバから亡命していた革命家たちと親交を結んで彼らの革命運動に参加した。1956年末カストロらのグループに加わってキューバに侵攻し、反乱軍の一司令官として活躍した。のちにゲリラ戦による革命の方法を理論化した『ゲリラ戦争』(1960)を著し、ラテンアメリカの武装革命のバイブルとして大きな影響を及ぼした。
1959年初めにバチスタ政権を打倒したのち、新政権のもとで国立銀行総裁(1959年10月)となり、1961年2月には初代工業相に就任した。その後1965年3月以来公式の場から姿を消すまで、工業相としてキューバの社会主義経済の建設を指導するとともに、『キューバ――反帝闘争の歴史的例外か前衛か』(1961)をはじめとする多数の論文や著作の発表により、また世界各地で開かれた国際会議への精力的な出席を通じて、キューバ革命をラテンアメリカ革命の前衛として位置づけるとともに、アジア、アフリカでの反帝国主義民族解放闘争との連帯に努めた。キューバから姿を消したのちボリビアに潜入して民族解放軍を結成し、1966年からゲリラ戦を開始したが、翌1967年10月政府軍の手で捕らえられ射殺された。ゲバラの思想と行動は一貫してキューバ革命の推進力の役割を果たしたばかりか、革命家として誠実な姿勢と思想と行動がもつ急進主義は、世界の他の地域にも大きな影響を及ぼした。
[加茂雄三]
『『ゲバラ選集』全4巻(1968~1969・青木書店)』▽『平岡緑訳『ゲバラ日記』(中公文庫)』▽『ゲバラ著、平岡緑訳『革命戦争回顧録』(中公文庫)』▽『三好徹著『チェ・ゲバラ伝』(文春文庫)』
ラテン・アメリカが生んだ傑出した革命家の一人で,その理論と実践はラテン・アメリカのみならず世界中に大きな影響を及ぼした。アルゼンチンのロサリオ市で中流家庭に生まれ,1945年,ブエノス・アイレス大学の医学部に入学,53年に学位を得た。子どものときから喘息(ぜんそく)の発作に苦しめられ,それは死ぬまで続いた。大学生時代にチリ,ペルー,コロンビア,ベネズエラを貧乏旅行し,ラテン・アメリカの現実についての見聞を深め,卒業後はグアテマラに渡ってそこで当時の革命派のアルベンス・グスマン政権のために働いた。このころ,アルゼンチン人特有の口ぐせから〈チェ〉の愛称が生まれた。同政権が反革命軍により打倒されたのちはメキシコに行き,当時メキシコに亡命していたフィデル・カストロらキューバ人革命家たちと出会い,その組織である〈7月26日運動〉に参加してバティスタ独裁政権打倒のため,カストロらとキューバに向かった。キューバではゲリラ戦に従事し,医師として活躍する一方,軍人としても優れた才能を発揮した。このゲリラ戦争の体験はのちに《革命戦争の旅》として発表された(1961-62)。バティスタ打倒後は革命政府の国立銀行総裁(1959),工業相(1961)としてキューバの社会主義経済建設を指導し,その間にキューバ革命の方法を理論化した《ゲリラ戦争》(1961)を発表,それはラテン・アメリカの革命家たちのバイブルとなった。ゲバラは経済的な効率も重視したが,共産主義への移行段階である社会主義においては人間の意識の変革が必要だと唱え,彼の最後の論文《キューバにおける社会主義と人間》(1965)の中で社会全体に奉仕する自発的で献身的な〈新しい人間〉の形成を主張した。1965年キューバから姿を消した彼は,66年ボリビアに赴き,そこでラテン・アメリカ革命という壮大な事業の実践に着手したが,翌年10月政府軍に捕らえられ殺害された。《ボリビア日記》をはじめ多数の著作,論文,演説が《ゲバラ全集》(1969)に収められている。
執筆者:加茂 雄三
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1928~67
アルゼンチン出身のマルクス主義革命運動家。キューバ革命で主導的な役割を果たした。グアテマラ革命に参加したのち,亡命先のメキシコで同じく亡命中のカストロらと出会い,1956年にともにキューバに潜入して反バティスタ武装闘争を展開した。59年の革命政権成立後は産業大臣などの要職に就任し,社会主義社会の建設を指導したが,65年に辞任。ボリビアで反政府ゲリラ活動を行ったが,捕えられ銃殺された。その行動と著作は世界的に報道,出版された。
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…こうした中で,対米関係の改善がどこまで進むかがキューバ外交の注目点となっている。
【経済】
[経済政策]
キューバは1960年代後半にE.ゲバラの考えに基づいたところの平等主義を徹底化し,社会主義と共産主義を並行して建設するという,急進的な経済路線をとっていたが,70年代初めにその路線が失敗に帰するや,ソ連・東欧型の社会主義経済建設に沿った現実的な路線へと改め,72年にはコメコンに加入してソ連・東欧社会主義共同体の中に経済を組み入れることによってその安定と成長をはかった。80年代にラテン・アメリカ全般を襲った経済危機はキューバにもある程度の影響を及ぼし,80年代半ばにはそれまでの経済政策の弊害や綱紀の是正のため〈修正〉政策を打ち出した。…
…カストロらはやがて恩赦により出獄し,56年に反バティスタ闘争の準備のためメキシコに渡り,そこで既存の改良主義政党とは絶縁した独自の組織である〈7月26日運動〉を結成した。メキシコでE.ゲバラ(愛称チェ・ゲバラ)を同志として受け入れたカストロらはゲリラ戦の訓練を積んだのち,56年11月グランマ号で再び武力でバティスタを打倒すべくキューバに向かった。
[ゲリラ戦による権力奪取]
キューバに上陸した彼らはバティスタ軍に迎撃され,かろうじて生き残った30人の同志はオリエンテ州のマエストラ山脈中に逃げ込み,そこで新たにゲリラ戦による反バティスタ闘争を開始した。…
…66年初めには南部の密林地帯で反政府ゲリラが活動を開始した。政府はアメリカ合衆国の軍事援助を受けて,ゲリラの鎮圧を行い,67年10月には,エルネスト・チェ・ゲバラが政府軍に捕らえられて銃殺された。69年4月にバリエントス大統領が死亡すると,69年,70年の左派軍事政権に続いて71年8月右派のバンセル政権が反共・親米政策をとり,石油ブームの恩恵を享受して7年間続いた。…
※「ゲバラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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