コペルニクス(読み)こぺるにくす(その他表記)Nicolaus Copernicus

デジタル大辞泉 「コペルニクス」の意味・読み・例文・類語

コペルニクス(〈ラテン〉Nicolaus Copernicus)

[1473~1543]ポーランド天文学者聖職者プロシアの生まれ。神学・医学・数学・天文学を学んだ。天体観測を続け、ギリシャ思想をうけて地動説を主張。近代天文学の出発点を確立。ポーランド名、ミコワイ=コペルニク。著「天球の回転について」など。

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精選版 日本国語大辞典 「コペルニクス」の意味・読み・例文・類語

コペルニクス

  1. ( [ラテン語] Nicolaus Copernicus ニコラウス━ ) ポーランドの天文学者、ローマ‐カトリック教会の聖職者。本名コペルニク。ギリシア思想の影響を受け、肉眼による天体観測に基づいて地動説を提唱。宇宙の中心は太陽で、地球と他の惑星はその周囲を公転すると主張し、従来の天動説を否定して、天文学界と思想界に一大革命をもたらした。著書「天球の回転について」は、教会との摩擦を避けて死の直前に刊行された。(一四七三‐一五四三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「コペルニクス」の意味・わかりやすい解説

コペルニクス
こぺるにくす
Nicolaus Copernicus
(1473―1543)

ポーランドの聖職者、天文学者。地動説の創設者。ポーランド名Mikołaj Kopernik。トルニの銅卸商の末子に生まれ、10歳で父を失い、兄姉とともに母方の伯父で聖職者のワッツェンローデLucas Waczenrode(1447―1512)に養われた。1491年、聖職を志してクラクフ大学に入学、学芸学科で哲学教授ブルゼウスキーAlbert Brudzewski(1445―1497)の数学、天文学の講義を聴き、宇宙観について啓発され、開眼した。そこでは、当時のプトレマイオスの天動説理論と『アルフォンス星表』にまとめられた観測結果との間のずれが指摘された。当時、ユリウス暦を採用していた教会祭礼暦は実際の日付より約10日の遅れがあった。また天動説に基づいて計算された天文航法用の天体位置暦は精密を期しえなかった。前者は宗教上の権威に、後者は航海者の生命にかかわる問題であり、この社会的問題がコペルニクスの天文学への関心を強めさせたに違いない。

 1496年、伯父の援助でルネサンスの本拠地、北イタリアへの遊学が実現し、コペルニクスはボローニャ大学に編入した。ここはヨーロッパ最古の大学であり、伯父の出身校でもあった。ギリシア語の学習から始めて、ギリシア哲学、ギリシア天文学へと進んだ。天文学教授ノバラDomenico Maria Novara(1454―1504)は、黄道傾斜を観測してプトレマイオスの宇宙体系に訂正が必要なことをみいだした篤学の人であった。コペルニクスは彼に師事して、1497年にアルデバラン星の星食の観測を手伝った。この年、留学中のまま、母国の教団からワーミアの聖堂の評議員に任命され、さらに留学を引き続き認める許可も下りた。1500年にはローマの聖誕祭に兄とともに正式資格で参列し、約1年間滞在し、天文学の講演を行い、月食を観測した。

 1501年いったん帰国し、改めて留学延期の承認を得、ただちにイタリアに戻ってパドバ大学を訪ねた。ここで神学の研修に励んだのち、1503年フェッラーラ大学に転じて神学の学位を得た。ふたたびパドバ大学に戻り医学を学び、1506年にはその学位を受けるまでに上達した。

 この大学遍歴の間にコペルニクス宇宙体系、いわゆる地動説の構想を固めたに違いないのであるが、その直接の動機となったといわれる古代ギリシアのアリスタルコスの手記にどこの大学で接したかは明らかでない。

 およそ10年間のイタリア留学を終え、1506年ごろ帰国し、伯父の任地ハイスベルクに赴き、秘書兼侍医として管内監督に、出張旅行に同行するなどして仕えた。彼の評判を高めたのは医療の技であり、貧民への施療にも精魂を注ぎ人望を集めた。1512年、伯父の他界とともに、フロムボルクフラウエンブルク)の寺院に着任した。ここで昼間は聖職、医療、税務の任にあたり、夜間は寺院の望星台で、手製の測角器を専用して天体観測に励んだ。目ざすところは地動説の確認にあり、その技術は熟達の域には及ばず、観測精度は十分ではなかったが、天体位置の予測に関しては従来の天動説によるものよりは優れていることに自信をもった。1514年、教皇庁の改暦審議会に召請されたが辞退した。その理由として、太陽年の1年の長さが未解決であることなどをあげているが、その実は、地動説がカトリックの教義に照らし異端であることをひそかに配慮したためと思われる。地動説を確信しながらも、これを著述し公刊することは大きな勇気を必要とした。

 1516年、エルムランド教区会計監査役兼アレンシュタイン寺院評議員に補されて転任したが、1526年にふたたび元のフロムボルクに大管区長として帰任することができた。そして17年後にこの地で永眠したのであるが、その臨終の枕辺(まくらべ)に彼の終生の主著『天球の回転について』の第一刷が届いたという。

 地動説を執筆した期間は20~30年間に及んだらしい。そしてそれが完稿に近い1530年ごろ、『概要』をまとめた。この『概要』は理論的に書かれた太陽中心説の初めての概説書であり、小部数だけ自費出版され、活動的な天文学者・数学者・聖職者らに配布された。その一部は教皇クレメンス7世およびシェーンベルクNicolaus von Schönberg(1472―1537)僧正にも贈られ、僧正からは主著公刊の激励を受けた。

 コペルニクスが主著出版の決意を固めた直接の動機は、ドイツの若い数学者レティクスの熱意による。『概要』に述べられた新説に感銘したレティクスは、1539年にコペルニクスに弟子入りし、およそ1年間教えを受けた。帰国にあたりその公刊を懇願し、説得に成功して、ニュルンベルクのグーテンベルク活版所での印刷を約して原稿を預かった。ところが帰国してまもなくライプツィヒ大学教授に就任することとなって、あとの世話を友人の神学者オシアンダーAndreas Osiander(1498―1552)に依頼した。この世話人は後顧の憂いを避けるために独自の序文を付した。つまりこの著書を単なる便宜的計算書としたのである。もとより著者コペルニクスの本意ではなかったが、それかあらぬか直接の禁書扱いを免れることができた。

 以上のように天文学で偉大な業績をあげたコペルニクスは、政治・経済面でも敏腕を振るった。1519年末から1521年まで、オルスチン城がドイツ騎士団によって包囲された際、城内にとどまってこの城を守った。1528年には『貨幣論』を著し、ここでグレシャムに先だって、貨幣の劣悪化が物価騰貴の原因になることを指摘するなど、貨幣改革にも努めるなどした。

[島村福太郎]

『広瀬秀雄著『コペルニクス』(1965・牧書店)』『F・ホイル著、中島龍三訳『コペルニクス』(1974・法政大学出版局)』『矢島祐利訳『天体の回転について』(岩波文庫)』



コペルニクス(年譜)
こぺるにくすねんぷ

1473 2月19日ポーランドのトルニに生まれる
1483 父ニコラウス死去。以降、伯父ワッツェンローデの下で養育される
1491 クラクフ大学入学。天文学を学び始める(1495年卒業)
1496 教会法修得のためイタリアのボローニャ大学に留学
1497 3月9日ボローニャ大学教授ノバラに師事。アルデバランの掩蔽を観測し、プトレマイオスの月理論の誤りに気づく。10月20日フロムボルクのワーミアの聖堂の評議員に任命される
1497 このころ『アルマゲストの概説書』(ポイエルバハ、レギオモンタヌス共著)を入手し、天動説の再検討に進む
1500 ローマを訪問
1501 ポーランドにいったん帰国。ついでパドバ大学に留学。医学に興味をもつ
1503 フェラーラ大学から教会法の博士号を受ける
1507 このころ地動説に関する小冊子を書く。月の運動を除いて、太陽の歳差運動、惑星運動についてはまだ多くの課題を残していた。一方、ハイスベルクで伯父ワッツェンローデの秘書兼侍医として活動
1509 テオフィラクトス・シモカッテスの書簡集を翻訳
1512 3月29日伯父ワッツェンローデ死去。フロムボルクに転任
1513 惑星の系統的な観測を始める
1514 教皇庁より改暦に関して意見を求められるが、返答を差し控える
1516 ワーミアの一地方長官となる
1520 このころドイツ騎士団の攻撃強まる。政治経済面で敏腕を振るう(~1530年ごろまで)
1522 ウェルナーの『第八球面の運動について』を批判する。集中的に月観測を行う(~1524年まで)
1528 通貨に関する経済的研究『貨幣論』を出版
1539 若い学者レティクスが訪れる
1540 レティクス、コペルニクス学説の概要『ナラティオ・プリマ』を出版
1543 3月神学者オシアンダーにより、主著『天球の回転について』出版される。5月24日フロムボルクで死去

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改訂新版 世界大百科事典 「コペルニクス」の意味・わかりやすい解説

コペルニクス
Nicolaus Copernicus
生没年:1473-1543

地動説(太陽中心説)の提唱者として知られるポーランドの天文学者。ポーランド名Mikołaj Kopernik。トルンの商人の子として生まれ,少年時に父を亡くしたが,有力な聖職者であった伯父の庇護の下に1491年にクラクフ大学に入り,96年にはイタリアのボローニャ大学で法学を,1501年にはパドバ大学で医学を修め,このイタリア留学中にギリシアの古文献に触れて,サモスのアリスタルコスの太陽中心説を知り,みずからの見解を固めたといわれる。ポーランドに帰ってからは終生教会領の管理職をつとめた。コペルニクスはみずからの太陽中心説天文学を《要綱》のかたちで述べて,知人のあいだに流布させていたが,天文学体系として十全に展開したのは,印刷された初版が彼の死の床にもたらされたといわれる《天球の回転について》(1543)である。地動説的な考えを述べた人は,スコラ学者の中にもいくらでもいるが,コペルニクスのこの著は,プトレマイオスの天動説天文学体系に対置される大部な地動説天文学体系を示したことで,そしてさらに,当時さかんになりかけていた印刷メディアに乗ることによって,やがて革命的な影響力をもつにいたる。その後につづく天文学者やさらに一般知識人は,プトレマイオス説を採るかコペルニクス説を採るかの選択に立たされることになったのである。

 コペルニクスは,議論にあけくれする当時のスコラ学の学統よりも,むしろ天体観測と軌道計算を主とする実地天文家の伝統のなかに位置づけられる。厳密にいえば,彼は太陽を宇宙の中心に置いていない。観測と計算を一致させるために,太陽は太陽系の中心からごくわずか離れたところに位置させられている。しかしそれはテクニカルな問題点であって,宇宙観としては彼は太陽を中心と考えていた。そして,太陽と地球と惑星の三角測量が彼の体系を採れば可能になるので,プトレマイオスの体系では無意味な値であった惑星の相対距離を正しくとらえることができ,ここからケプラーの第三法則,ニュートンの力学が導かれることになる。彼はまた,恒星の世界を無限ないしそれに近いものと考えていた。しかし宇宙がもし無限なら,そこには中心はないはずである。その種の議論をコペルニクスは天文学の問題ではなく,自然哲学者にまかせるべきだと考えて,みずからは立場を明確にしていないが,その発想が〈閉ざされた〉中世的宇宙観(コスモス)から〈開かれた〉近代的宇宙観への移行のゲート・キーパーとして影響したことは確かであり,この宇宙観・世界観の大変革がしばしば〈コペルニクス革命〉と称されたり,転じて哲学その他の分野で〈コペルニクス的転回〉(カント)の語が用いられるゆえんである。力学の問題は彼にも解けぬ問題であったが,従来のアリストテレス的な重力が,地球だけでなく,すべての天体について存在することを認めている。なお彼は教会領の管理者として,ドイツ騎士修道会の侵寇に対する反抗の指揮をとったために,現代ではポーランド人によって国民的英雄として顕彰されている。
地動説
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コペルニクス」の意味・わかりやすい解説

コペルニクス
Copernicus, Nicolaus

[生]1473.2.19. トルン
[没]1543.5.24. フロンボルク
ポーランドの天文学者。クラクフ大学 (1491) ,イタリアのボローニャ大学 (97) ,さらにパドバ大学 (1501) に学び,当時のほとんどすべての学問を修め,教会法で博士の学位を取得 (03) 。 1497年以来フロンボルクの聖堂参事会員。帰国 (05) 後はその地でその生涯をおくった。イタリア滞在中,D.ノバラらに代表されるルネサンスの新プラトン主義思想の息吹きに触れ,古典学,天文学に関心をいだいた。ギリシア,ローマの古典を通じて,早くから,太陽中心説の着想を得ていたが,生涯をかけてその数学的精緻化に努力した。宗教上の懸念もあって,有名な地動説を述べた『天体の回転について』の全編が刊行されたのは,彼の死の直前の 1543年であった。伝統的な地球中心のプトレマイオス体系ではすでに当時の観測事実を証明するのでさえ多くの不自然な技巧を施さなければならない状態で,哲学的のみならず実用天文学上の観点からも根本的変革の必要に迫られていたといえよう。コペルニクスの地動説は,当時の理論的難点のいくつかを取除くことができたばかりでなく,天界は神聖かつ不変であり生成消滅する地上世界とは本質的に異なるという伝統的区別,また大地の不動性など,神学・哲学ばかりか常識の根底にまで浸み込んだ考え方に真向から反するものであった。しかし,コペルニクスの体系自体には宇宙の有限性,惑星天球および周転円など,保守的要素も多く残存していた。コペルニクスの天文体系から派生する多くの問題を解決していくことは,ケプラー,ガリレイ,さらにはニュートンらによって進められる科学革命の中心的課題であった。

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百科事典マイペディア 「コペルニクス」の意味・わかりやすい解説

コペルニクス

ポーランドの天文学者。1491年クラクフ,1496年よりボローニャ,パドバで学ぶ。1505年故国にもどって教会で働き,1512年からフラウエンブルクの聖堂参事職。アリスタルコスの説からヒントを得て地動説を信じるようになったといわれ,1530年ごろ概説《コンメンタリオルス》を書いて友人に送った。友人ギーゼやレチクスの勧めにより《天球の回転について》を1543年出版,これが完成したときすでに死の床にあった。本書は天文学に革命的影響を与え,近代科学成立の契機となった。
→関連項目クラクフ大学コペルニクス的転回

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「コペルニクス」の解説

コペルニクス
Nicolaus Copernicus

1473~1543

ポーランドの天文学者で近世地動説の提唱者。1495~1505年イタリアに留学中,古代地動説に接し,以後その体系化に生涯を捧げ,1543年主著『天球回転論』を刊行した。彼は天動説の体系を倒立させて地動説の土台のうえに再建,惑星の相対距離を導き,惑星の逆行をみごとに説明できたが,数値的には天動説と変わらず,地動説を立証することはできなかった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「コペルニクス」の解説

コペルニクス
Nicolaus Copernicus

1473〜1543
ポーランドの天文学者
イタリア留学から帰国後,僧職にあって天文学の研究を続け,地動説を内容とする『天球の回転について』を著し,天文学のみならず近代科学の発展に多大な影響を与えた。しかし,当時の教会の天動説にもとづく天文学に反対することをためらい,この書は彼の死の直前に公刊された。

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世界大百科事典(旧版)内のコペルニクスの言及

【宇宙】より

…12世紀以降アリストテレス主義と結んだキリスト教神学がスコラ学としてギリシア的な宇宙像を受け入れたとき,半ば意識的に拒否されたプラトン,新プラトン主義関係の文献が,フィレンツェを中心に15世紀後半にラテン語に翻訳され,一つの思想運動に発展すると,その中にはさまれていたヘリオス信仰(ヘルメス主義や新プラトン主義に強く見られる)が西欧世界をふうびすることになった。フィレンツェ・プラトニズムの雄M.フィチーノは《太陽と光についてDe sole et lumine》を著して,その先鞭をつけたが,こうした新傾向の洗礼を受けた一人にN.コペルニクスがいた。まさしく天体の中でももっとも神聖な太陽こそ,そして中心からすべてを〈流出〉する源としての太陽こそ,宇宙の中心にあるべきであるとするコペルニクスやJ.ケプラーが,プトレマイオス流の地球中心的宇宙モデルを太陽中心的モデルに書き換えることになったのは,そうした太陽崇拝思想の結果としてむしろ自然なことであった。…

【数学】より

…M.ルターが宗教改革を開始したのは1517年であった。43年は,N.コペルニクスの《天球の回転について》とA.ベサリウスの《人体の構造》が発表された年である。それぞれ近代的な天文学,解剖学の出発点となったものであるが,数学に関係するのはとくに前者である。…

【天球の回転について】より

…ポーランドの天文学者N.コペルニクスの著書で,1543年にニュルンベルクで刊行されたが,本書の主要部分は1530年ころに完成されていたものとされ,また,それ以前にコペルニクスは《要綱Commentariolus》を書いて友人らに配っている。本書の見本刷りはフラウエンブルクで臨終の床にあったコペルニクスに届けられたと報じられている。…

【天文学】より

…天文学が古くから高い段階の学問として成長したのは,それが民衆の生活に必要な知識を提供したばかりでなく,天体の運動にみられる整然さの中に人々が法則性をつかみとることができたからである。 近世における天文学はコペルニクスの地動説に始まり,ケプラー,ガリレイを経てニュートンに至って大きく進歩した。彼が発見した一般の力学法則および万有引力則に基づいて,18世紀には天体力学が著しく発達した。…

【フロムボルク】より

…長さ80kmの細長い砂州で囲まれたビスワ湖に臨む小さな漁港で,サナトリウムが多い保養地でもある。1278年以来の古いワルミア地方の町で,コペルニクスが40年にわたってこの地で活動し,その功績を記念した博物館がある。のちにドイツ騎士修道会が勢力を増し,東プロイセン領となった。…

※「コペルニクス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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