ボリビアの軍人,政治家。スペイン人を父,インカ王族の末裔を母としてラ・パスに生まれ,最初スペイン軍に加わったが,1820年サン・マルティンの率いる独立派に捕らえられ,独立派に転向した。エクアドル,ペルー,ボリビアの独立戦争を指導。26年から27年までボリーバルの下でペルー大統領の代理をつとめ,29年に任期10年のボリビア大統領に選ばれた。彼は強権をもってボリビアの政治・経済の停滞を立て直し,進歩的政策によって国の繁栄をもたらした。当初から彼はペルーとボリビアをひとつにしようという目的をもっており,36年にペルーへの侵入が成功すると同時にペルー・ボリビア連合の成立を宣言した。しかし,39年にチリ軍にユンガイで敗れると,この連合も崩壊した。彼は大統領を辞職し,国を去り,それ以後はヨーロッパ諸国でボリビアの外交代表をつとめ,フランスのサン・ナゼールでその生涯を閉じた。今日でもボリビア人により〈大元帥〉として敬愛されている。
執筆者:中川 文雄
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南アメリカ、ボリビア南東部の都市。サンタ・クルス州(人口202万9471。2001)の州都。コルディエラ・オリエンタル山脈の東に広がる広大な平原地域に位置する。人口113万5526(2001)。アマゾン川流域の湿地帯の中にあり雨期には泥の町となる。1561年に建設されて以来、長い間孤立状態にあったが、第二次世界大戦後、付近で油田が発見されてから急速に発展した。西方約300キロメートルのコチャバンバからの舗装道路が完成し、鉄道でパラグアイ川沿岸のブラジルのコルンバと連絡し、さらにサン・パウロに通じる。砂糖、米、コーヒーの集散地で、精糖、石油精製などの工場がある。また鉄鉱石とマンガンの鉱山が発見され開発計画が進んでいる。住民の大部分は白人で混血はごく少ない。歩道に屋根が雁木(がんぎ)状にせり出した町並みに特色がみられる。
[山本正三]
アフリカ北西岸、モロッコの西方約100キロメートルの大西洋上に浮かぶスペイン領カナリア諸島にある都市。テネリフェ島北東岸に位置する。サンタ・クルス・デ・テネリフェ県の県都。人口18万8477(2001)。同諸島最大の都市であり、最大の港。農産物の輸出港として、荷扱い量は年平均1300万トンに上る。大西洋定期航路の寄港地で、また遠洋漁業基地としても発展している。気候温暖なため観光地でもあり、空港の出入り客も多い。大石油精製所が立地する。16世紀初めには港(1494建設)をもつ一漁村にすぎなかったが、18~19世紀を通じて港湾機能の重要性が増し、1927年まで諸島全域の行政中心都市であった。16世紀の教会がある。
[田辺 裕・滝沢由美子]
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…第2次大戦後の移住は53年に始まり,5800人にのぼる。サンタ・クルス州に集中し,3000人余りが米作を中心とする農業を行っている。アメリカ施政権期の沖縄から移住した人も多い。…
…1836年10月に宣言された南部および北部ペルーとボリビアからなる政治連合。S.ボリーバルの大連合の試みが挫折して以来もペルーとボリビアの統合の可能性はつねに残されていたが,リマにおけるカウディーリョの権力抗争のなかで,ボリビア大統領サンタ・クルスが,前年リマ政府を追われたオルベゴーソと同盟を結びボリビアの指導下に連邦を樹立した。しかし両国がいかに歴史的共通点を有していたとしても,連邦による中央アンデス全体への版図拡大は,とくにチリの安全にとって脅威であり,チリ政府はリマ政府との合意により軍隊を派遣,翌39年1月,リマの北ユンガイでガマラA.Gamarra(1785‐1841)らのペルー軍とともに連邦軍と衝突した。…
…第2次大戦後の移住は53年に始まり,5800人にのぼる。サンタ・クルス州に集中し,3000人余りが米作を中心とする農業を行っている。アメリカ施政権期の沖縄から移住した人も多い。…
※「サンタクルス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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