ボリーバル(読み)ぼりーばる(英語表記)Simón Bolívar

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ボリーバル」の意味・わかりやすい解説

ボリーバル
ぼりーばる
Simón Bolívar
(1783―1830)

南アメリカ独立運動の指導者、大コロンビア共和国大統領。「解放者」el Liberatorの称号をもつ。ボリビア共和国(現ボリビア多民族国)はその名にちなんで命名された。

 現ベネズエラの首都カラカスのクリオーリョ(植民地生まれの白人)の名門に生まれる。家庭教師より啓蒙(けいもう)思想の影響を受け、1799年からヨーロッパで学び、この間に植民地独立の志を固めた。ナポレオンのスペイン占領をきっかけに独立の気運が高まるなか、1810年に亡命中の独立運動の先駆者ホセ・ミランダとロンドンで会い、両者は帰国して翌1811年ベネズエラを独立させた。しかし大地震の打撃もあって1812年同国は崩壊しボリーバルは亡命した。同年、亡命地で「カルタヘナ宣言」を発表して独立運動の続行を宣言、ヌエバ・グラナダ(現コロンビア)住民の協力のもとに、1813年ベネズエラをふたたび解放した。しかし翌1814年、オリノコ川流域の牧畜民(リャネロス)に支援された王党派に敗れ、ジャマイカへの亡命を余儀なくされた。ここで「ジャマイカからの手紙」を発表、また奴隷制廃止を約束してハイチ共和国の支援を受け、ベネズエラ上陸作戦を決行したが失敗した。

 以後戦略を転換して、1817年にはオリノコ川をさかのぼってアンゴストゥーラ(現シウダー・ボリーバル)を占領した。この後パエスの率いるリャネロスを味方につけ、またナポレオン戦争の終わったイギリスから武器や兵員を調達したのち、1819年にアンデス山脈を越えてボゴタを占領、同年末、現在のベネズエラ、コロンビア、エクアドルからなる大コロンビア共和国の独立を宣言した。1821年には北進してベネズエラを解放、1822年には南進してエクアドルも解放、さらに同年7月、ラ・プラタ(現アルゼンチン)から進撃してチリおよびペルーを解放していたサン・マルティンとグアヤキル会談、ペルーでの指導権も握った。1824年にはアンデス山岳地帯を支配していた最後のスペイン軍を撃滅(アヤクチョの戦い)、1825年ボリビア共和国を独立させた。翌1826年にはパナマでスペイン系諸国の国際会議を開催し(コロンビア、ペルー、メキシコ、中央アメリカ諸国が参加)、これら諸国の団結と共同防衛を目的とした条約を成立させ、ラテンアメリカ連帯の先駆者となった。しかしこのころから各共和国内の対立や分離運動、国際紛争が激化し、ボリーバルの努力もむなしく、1830年にはついに大コロンビア共和国も三国に分離解体した。結核に苦しむボリーバルは失意のうちに引退し、ヨーロッパへの途上コロンビアのサンタ・マルタで病死した。

[野田 隆]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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