シュレスウィヒホルシュタイン

精選版 日本国語大辞典 の解説

シュレスウィヒ‐ホルシュタイン

(Schleswig-Holstein) ドイツ北部、ユトランド半島の基部にある州。もとシュレスウィヒ公とホルシュタイン伯の領土で、その帰属をめぐるデンマークとドイツの間の紛争が絶えなかった。酪農が行なわれる。州都キール

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改訂新版 世界大百科事典 の解説

シュレスウィヒ・ホルシュタイン
Schleswig-Holstein

ドイツ連邦共和国の一州。同国最北端の州で,ユトランド半島の南半を占め,北はデンマークに接し,東はバルト海,西は北海に面している。アイダーEider川をはさんで北がシュレスウィヒ(デンマーク語でスリースウィーSlesvig),南がホルシュタイン。バルト海のフェーマルン島,北海の北フリージア諸島およびヘルゴラント島を含み,面積は1万5659km2,人口284万(2007)。州都は海港都市キール。おもな都市としてほかにリューベックがある。

西海岸は干潟の海に低湿地帯が連なり,北海の風水害を防ぐため長大な堤防が築かれている。東部のバルト海側は氷河の堆石による肥沃な丘陵地で,峡湾(フィヨルド)と湖沼に富み,その南部は〈ホルシュタイン・スイス〉と呼ばれる景勝の地となっている。半島中央部には砂地,不毛の高乾燥地帯が南北に連なる。経済の基盤は農業で,全面積の75%が農地だが,穀作のほかに牧畜乳業も盛んである。穀作は南東部を中心とし,ここではなおジャガイモも多く生産されている。工業としてはキールやリューベックに造船・機械工業が発達している。

この地の歴史は民族問題がからんできわめて複雑である。北部のシュレスウィヒは中世初期からデンマークの支配下にあり,ドイツ人とともにデンマーク人も多く住んでいた。南部のホルシュタインはドイツ人の居住地で,神聖ローマ帝国の版図に入っていた。したがってシュレスウィヒ(公爵領)とホルシュタイン(伯爵領,1474年に公爵領に格上げ)は元来は別の国だったのだが,両国は14世紀以来シャウムブルク家を共通の支配者とする同君連合の関係に立っていた。1459年にシャウムブルク家が断絶すると,両国の貴族は翌年デンマーク国王を共通の支配者に選んだ。ここにデンマーク国王がシュレスウィヒ公爵とホルシュタイン伯(公)爵を兼ねるという新しい同君連合が始まり,なお両公国は〈永遠に不可分〉と約定された。ただし従来通りシュレスウィヒはデンマークを宗主国とし,他方ホルシュタインは神聖ローマ帝国の一部であり続けたのであって,すなわち共通の君主をいただく〈不可分〉の両公国が宗主国は異にするという複雑な関係が形づくられたわけである。この関係は,1806年に神聖ローマ帝国が崩壊し,ウィーン会議によってドイツ連邦が結成されてからも続き,デンマーク国王はホルシュタイン公の資格でドイツ連邦の構成者となった。

しかしこのような状態は,フランス革命後各地で燃え上がった自由主義,国民主義の要求にそぐわず,シュレスウィヒ・ホルシュタインのドイツ貴族が両公国独自の憲法を要求してデンマークからの自立をはかる一方,デンマーク側でも国民自由主義的なアイダー・デーン党が,シュレスウィヒをホルシュタインから切り離してデンマークに併合しようとする運動を起こし,これはデンマーク人の多く居住する北シュレスウィヒに支持者を見いだしたのであった。この問題はデンマーク国王クリスティアン8世(在位1839-48)とその弟で王位継承者のフリードリヒにともに子どもがなかったこと,またデンマークでは女系相続が認められていたが,ドイツ系のホルシュタインでは認められなかったという事情もからんでさらに紛糾した。そして1848年,デンマークで王位交代があった直後に三月革命が起こり,デンマーク政府がシュレスウィヒの併合を宣言する一方,キールには両公国の革命臨時政府が樹立されて,両公国のデンマークからの離脱とドイツ連邦への加盟がはかられた。ドイツ連邦もまたこれを支援し,その要請を受けてプロイセン軍がシュレスウィヒに入り,デンマーク軍を駆逐した。しかしイギリス,ロシア等の干渉があって,プロイセンは8月デンマークとマルメーの休戦条約を結んで臨時政府を見捨てたのである。これはドイツ中に憤激の嵐をまき起こしたが,フランクフルト国民議会も結局はこの休戦を認めざるをえなかった。この問題はヨーロッパ諸国の介入の下,1852年5月のロンドン議定書で一応の決着をつけられ,両公国に対するデンマーク国王の権利が認められるとともに,デンマーク王位の継承者をグリュックスブルク公クリスティアンと定め,他方,国王フリードリヒ7世(在位1848-63)はシュレスウィヒを併合しないことを声明したのであった。

 ところがデンマークはロンドン議定書の約定を破って63年3月,シュレスウィヒをホルシュタインから切り離して事実上併合する勅書を発し,同年11月ロンドン議定書に基づいて即位したクリスティアン9世(在位1863-1906)はその線に沿った新憲法を裁可した。それに対し,ドイツの国民主義的世論を背景にして,アウグステンブルク公フリードリヒが両公国の支配権継承者として名のりをあげ,他方ドイツ連邦議会はオーストリアとプロイセンの指導の下にロンドン議定書違反を理由としてデンマークに対する連邦制裁(デンマーク国王はホルシュタイン公として連邦の構成員)を決議し,12月ザクセンとハノーファーの軍隊がホルシュタインを占領,翌64年1月にはオーストリア・プロイセン連合軍が独自にシュレスウィヒを占領,3月デンマーク領ユトランドにも進入して6月にはこれを制圧した。この間ドイツの中小国とプロイセン,オーストリア両大国の間には路線争いがあり,前者がアウグステンブルク公を君主とする両公国の独立を主張すれば,プロイセンとオーストリア,特にプロイセンはロンドン議定書の堅持を軍事行動の目的として掲げていた。これはしかし,列強に介入の機会を与えずに両公国を最終的にはプロイセンに併合するためのビスマルクの術策だったのである。戦争は10月のウィーン講和条約で終わり,デンマークは両公国をプロイセンとオーストリアに割譲した。以後両公国はプロイセン,オーストリア両国の共同管理下に置かれ,なお65年8月のガスタイン協定で,シュレスウィヒはプロイセンの,ホルシュタインはオーストリアの行政下に入れられたが,この状態は1年と続かず,66年の普墺戦争の結果両公国ともにプロイセンに併合されて,その地方州シュレスウィヒ・ホルシュタインとなった。
スリースウィー問題

プロイセン領となったシュレスウィヒ・ホルシュタインにおいては,今度はシュレスウィヒに多く居住するデンマーク人がドイツ内の少数民族として抵抗を強めた。そのため第1次世界大戦後,ベルサイユ条約の規定により住民投票が行われて,その結果シュレスウィヒ北部地帯が約7万5000対2万5000でデンマークに帰属することになった(1920年6月15日)。シュレスウィヒ・ホルシュタインは第2次大戦後,プロイセンの地方州からイギリス占領地区内の一州,そしてドイツ連邦共和国の一州へと変わったが,民族問題はその後も多少尾を引いた。この州になお残ったデンマーク人は,西ドイツにおける唯一のまとまった少数民族をなしたが,西ドイツ選挙法の5%条項に妨げられて当初州議会に代表を送ることができなかった。他方デンマークに住むドイツ人の問題もあり,西ドイツ,デンマーク両国は1955年3月,双方における少数民族の権利を定めた協定を結び,これに伴い,シュレスウィヒ・ホルシュタイン州議会内に,デンマーク人も入る特別のデンマーク人問題委員会が設置された。そしてデンマーク人のための学校も認められた。
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