ドイツ連邦(読み)ドイツレンポウ(その他表記)Deutscher Bund

デジタル大辞泉 「ドイツ連邦」の意味・読み・例文・類語

ドイツ‐れんぽう〔‐レンパウ〕【ドイツ連邦】

Deutscher Bundウィーン会議結果、1815年に成立した全ドイツ的な連邦組織。35の君主国と4自由都市によって構成され、オーストリア盟主となったが、1866年、普墺ふおう戦争後に解体

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精選版 日本国語大辞典 「ドイツ連邦」の意味・読み・例文・類語

ドイツ‐れんぽう‥レンパウ【ドイツ連邦】

  1. ウィーン会議の結果、一八一五年に成立した全ドイツ的な連邦組織。オーストリア、プロイセンなど三五君主国、四自由市からなる。連邦議会所在地はフランクフルト議長国はオーストリア。各構成国の独立と平等を原則としていたが、主導権はオーストリアが掌握。プロイセン‐オーストリア戦争の結果、六六年解体。

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改訂新版 世界大百科事典 「ドイツ連邦」の意味・わかりやすい解説

ドイツ連邦 (ドイツれんぽう)
Deutscher Bund

1815年ウィーン会議によってつくられた,ドイツ諸国(自由都市を含む)の連合組織。15年5月の〈ドイツ連邦規約〉に基づき,〈ドイツの内的安全と個々のドイツ諸邦の独立および不可侵性の維持〉を目的として39ヵ国で結成。連邦の機構はその後20年のウィーン最終規約等により,連邦権力を強化する方向で細目の規定を得たが,加盟諸国の国家主権は不可侵であり,連邦は最後まで諸邦連盟にとどまって一つの連邦国家には発展しなかった。連邦の中央機関としてはフランクフルト・アム・マインに連邦議会(連邦各国政府の代表者会議)があるのみであり,オーストリアが恒常的議長国としてこれを指導したが,連邦基本法の改正についてはすべての国が拒否権を有するような制度,また特にオーストリア,プロイセン両大国の存在は,連邦全体の統一行動を著しく困難ならしめた。しかし反面,両大国が一致して行動する限り他の中小国はそれに従わざるをえない面もあり,実際カールスバート決議にはじまる連邦の保守的結束は,オーストリア宰相メッテルニヒの保守的指導がプロイセンの協調に支えられて実効をもったのである。両大国の保守的協調の下で自由主義ドイツ統一運動の抑圧機構となった連邦は,48年の三月革命によって方針の転換を迫られたが,時流に対応できぬまま同年7月に自ら解散。革命の失敗後,51年5月に再興されたが,革命前の両大国の協調はもはや再現せず,連邦はむしろ両大国の対決の場になっていく。60年代に入るとドイツ統一を求める国民の運動の広がりの中で連邦も改革を迫られ,両大国の争いも連邦改革の主導権争いという形をとるが,最後は66年の普墺戦争で結着がつけられ,プラハの講和条約(1866年8月)で連邦は解体した。新たに北ドイツ連邦が組織されて,これがドイツ統一の基礎となった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ドイツ連邦」の意味・わかりやすい解説

ドイツ連邦
ドイツれんぽう
Deutscher Bund

ウィーン会議により 1815年6月発足し,プロシア=オーストリア戦争後の 66年のプラハ条約で解体したドイツの国家組織。オーストリア帝国およびプロシア,ザクセンなど5王国,ヘッセン=カッセル選帝侯国のほか大公国7,公国 10,侯国 10,自由都市4の計 38君主国 (のち 1817年にホンブルク地方伯領加入で 39) から成り,フランクフルトに連邦議会がおかれた。参加各邦は連邦内他国の戦争の際の一致協力と,相互間の戦争禁止以外は主権を制約されず,一般事務処理の際は大国1票,小邦は数国を合せて1票の表決権を有し,重要法案審議の際は総会を構成し,その表決権は国力大小に応じて行使された。連邦議会の議長はオーストリアより出され,指導権をもったメッテルニヒのもと連邦議会は,三月革命までの反動的役割を果し,革命後の7月 12日,フランクフルト国民議会に権限をゆだねて解散。反革命後,オーストリアの提唱で 50~51年ドレスデン議会により復活,51年夏,復活後最初の連邦議会が開かれたが,オーストリア,プロシアの勢力争いに終始し,結局プロシア=オーストリア戦争後のプラハ条約で連邦は正式に解体した。

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百科事典マイペディア 「ドイツ連邦」の意味・わかりやすい解説

ドイツ連邦【ドイツれんぽう】

1815年ウィーン会議の決定に基づきドイツの35君主国と4自由市によって結成された国家連合組織。常置機関としてフランクフルトに連邦議会を置き,各国はここに公使を派遣,議長はオーストリア公使。1848年革命に際し一時解散,1851年復活したが,普墺戦争の結果1866年解体。→ドイツ帝国
→関連項目ドイツドイツ関税同盟リヒテンシュタイン

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ドイツ連邦」の解説

ドイツ連邦(ドイツれんぽう)
Deutscher Bund

1815~66

ウィーン会議の結果,オーストリアプロイセンバイエルンザクセンハノーヴァーなど35の君主国と4自由市で構成された全ドイツ的組織。ドイツ連邦は各国の代表からなる連邦議会をフランクフルトに持ち,オーストリアが連邦議会の議長としてヘゲモニーを握ったが,各国はそれぞれ独立国としての権能を持っていた。三月革命の際ドイツ統一の主導権はフランクフルト国民議会に移り,連邦は無力化したが,革命後復活し,プロイセン‐オーストリア戦争の結果1866年のプラハ条約によって解体した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ドイツ連邦」の意味・わかりやすい解説

ドイツ連邦
どいつれんぽう
Deutscher Bund ドイツ語

神聖ローマ帝国解体とナポレオンによるドイツ諸侯国統廃合のあとを受け、1815年ウィーン会議で創設されたドイツ諸国の連合組織。オーストリア帝国、プロイセン王国とほかに四王国、一選帝侯国、七大公国、10公国、10侯国、一地方伯国、四自由市の計39国が加盟し、その機関としてフランクフルトに連邦議会が設置された。連邦議会は、議長国オーストリアによって統一ドイツ国家実現の運動を抑圧する機関として利用され、ウィーン体制期には自由主義的統一運動を弾圧した。その後ビスマルクが登場すると、プロイセン中心のドイツ統一に反対した。そのため1866年プロイセン・オーストリア戦争においてオーストリアが敗北するとともに連邦も崩壊した。

[岡崎勝世]

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旺文社世界史事典 三訂版 「ドイツ連邦」の解説

ドイツ連邦
ドイツれんぽう
Deutscher Bund

ウィーン会議の結果,1815年,ドイツに成立した連合組織
オーストリア・プロイセンなど主権をもつ35の君主国と4自由市で組織された。独立国家の集合体で,フランクフルトに連邦議会が置かれ,オーストリアが議長国となった。1848年の三月革命後は,小ドイツ主義が優勢となり,66年の普墺 (ふおう) 戦争の結果北ドイツ連邦が成立し,解体した。

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世界大百科事典(旧版)内のドイツ連邦の言及

【ウィーン体制】より

…ウィーン体制はこのような方向に対して,政治的かつ思想的に歯止めをかけようとした復古的分立主義であった。
【ドイツ連邦の成立】
 ウィーン会議の結果,1815年6月8日に,34の主権を持った侯国と四つの自由都市によって〈連邦議定書〉が調印され,〈ドイツ連邦〉が成立した。しかしこれは統一されたドイツ国家ではなく,ドイツ諸侯がその主権を保証し合う君主同盟であって,統一よりも分裂の原理の勝利を意味した。…

【プロイセン】より

…ナポレオンに対する解放戦争でプロイセンが主役を演ずることができたのは,こうした改革のたまものである。 しかし,いったんナポレオンによる支配から解放されると,メッテルニヒの〈ウィーン体制〉のもとで,プロイセンはウィーン会議後結成されたドイツ連邦における政治的反動の一翼を担い,国内における改革もユンカーの勢力挽回によって頓挫を余儀なくされた。西南ドイツを中心に立憲君主制が連邦諸国で実現されつつあるこの時期に,プロイセンは,オーストリアと同様,憲法も国民代表機関としての議会ももたず,絶対主義的な統治体制を固持しつづけた。…

※「ドイツ連邦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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