フリードリヒ

デジタル大辞泉 「フリードリヒ」の意味・読み・例文・類語

フリードリヒ(Caspar David Friedrich)

[1774~1840]ドイツ‐ロマン派の代表的画家。象徴的、宗教的意味を担った独自の風景画を描いた。

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精選版 日本国語大辞典 「フリードリヒ」の意味・読み・例文・類語

フリードリヒ

  1. ( Friedrich )
  2. [ 一 ] ( 一世 ) ドイツのホーエンシュタウフェン朝第二代の神聖ローマ皇帝(在位一一五二‐九〇)。国内諸侯をおさえ、イタリア政策を推進した。第三回十字軍遠征中溺死。赤髭王(バルバロッサ)と呼ばれた。(一一二三頃‐九〇
  3. [ 二 ] ( 二世 ) ドイツのシュタウフェン朝第六代の神聖ローマ皇帝(在位一二一五‐五〇)。シチリア国王も兼ねる。第六回十字軍をおこしエルサレム王国をたてた。最初のルネサンス人といわれる。(一一九四‐一二五〇
  4. [ 三 ] ( 二世 ) プロイセン王(在位一七四〇‐八六)。フリードリヒ‐ウィルヘルム一世の子。オーストリア継承戦争・七年戦争によって全シュレジエン(シロンスク)を領有し、ポーランド分割で西プロイセンを獲得。国内的には富国強兵に努めた。「国家第一の下僕」と自称した啓蒙専制君主の典型で、学問・芸術を愛好した。フリードリヒ大王とも。(一七一二‐八六

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百科事典マイペディア 「フリードリヒ」の意味・わかりやすい解説

フリードリヒ[2世]【フリードリヒ】

プロイセン国王(在位1740年―1786年)。フリードリヒ・ウィルヘルム1世の子。大王と呼ばれる。オーストリアハプスブルク家に対抗してオーストリア継承戦争シュレジエン戦争七年戦争を戦い抜き,シュレジエンを獲得してプロイセンの地位を確立。国内では常備軍や官僚組織を整備し,農業を振興し,重商主義政策による工業の育成に努めた。またボルテールを招き,科学アカデミーを再興するなど文化政策にも意を用いた。啓蒙専制君主の典型とされる。
→関連項目クアンツ啓蒙絶対主義サンスーシ宮殿絶対王政フリードリヒ・ウィルヘルム[1世]プロイセンベルリン国立博物館ホーエンツォレルン[家]メンツェルリーグニツの戦

フリードリヒ[1世]【フリードリヒ】

シュタウフェン朝ドイツ国王(在位1152年―1190年),神聖ローマ皇帝(在位1155年―1190年)。バルバロッサBarbarossa(赤ひげ王)と呼ばれる。コンラート3世の甥(おい)。封建関係を利用して権力集中を図り宿敵ハインリヒ獅子公)を失脚させたが,帝国諸侯身分の成立を招き王権衰退の機縁となった。前後6回のイタリア遠征で教皇やロンバルディア都市同盟の抵抗に苦戦。第3次十字軍の途中小アジアで水死。
→関連項目アレクサンデル[3世]ハインリヒ[6世]ロンバルディア都市同盟

フリードリヒ[2世]【フリードリヒ】

シュタウフェン朝神聖ローマ皇帝(在位1220年―1250年),シチリア王(在位1197年―1250年)を兼ねる。ハインリヒ6世の子。教皇インノケンティウス3世の後見を受け,イタリア,シチリアの経営に没頭。本国ドイツを閑却したためその諸邦分立をもたらした。第6次十字軍を起こしてエルサレムを一時占領。シチリアにおいては先進的な官僚制体制を整備,人柄の開明さや合理的精神,イスラム文化への理解などから〈玉座の上での最初の近代人〉と呼ばれる。
→関連項目モンテ城ロンバルディア都市同盟

フリードリヒ

ドイツの画家。コペンハーゲンで学んだ後,ドレスデンで制作した。1807年に祭壇画として《山上の十字架》を描き,その斬新な風景の扱い方によって論議を巻き起こした。彼が描く神秘的で瞑想的な自然の相貌は,形而上的世界へのロマン主義的な憧憬と人間の孤独をあますところなく伝える。19世紀末の象徴主義の展開とともに再評価され,現在ではドイツ・ロマン主義絵画を代表する画家とされている。
→関連項目ルンゲ

フリードリヒ[3世]【フリードリヒ】

ザクセン選帝侯(1486年―1525年)。賢侯と称される。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世,カール5世治下のドイツの最有力者だった。宗教改革に際してはルターを保護し,メランヒトンの影響を受けて新教の信仰を許した。
→関連項目ウォルムス国会

フリードリヒ[1世]【フリードリヒ】

初代のプロイセン国王(在位1701年―1713年)。ブランデンブルク選帝侯としてフリードリヒ3世を称したが,スペイン継承戦争で神聖ローマ皇帝レオポルト1世を助けた功で王号を許され,プロイセン国王となった。学芸の保護・育成に努めた。
→関連項目プロイセン

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改訂新版 世界大百科事典 「フリードリヒ」の意味・わかりやすい解説

フリードリヒ
Caspar David Friedrich
生没年:1774-1840

ドイツ・ロマン派を代表する画家。ドイツの北限に近い,北海に臨むグライフスワルトGreifswald生れ。1794-98年にコペンハーゲンの美術アカデミーに学んだ後,ドレスデンに住み,小さな国内旅行を除き,生涯をここですごした。当時のドレスデンはアカデミーや,ザクセン選帝侯が集めた数々の名画(ドレスデン国立絵画館)によってドイツにおける美術の中心地の一つであったが,同時にベルリン,イェーナなどとともにドイツ・ロマン主義運動の中心地でもあり,フリードリヒの芸術もこうした運動の一環としてとらえることができる。もっぱら風景画のみを手がけたが,それ以前のプッサン,ロラン流の古典的風景画とも17世紀オランダの写実的風景画とも,ロココのピトレスクなそれとも異なる,画家の内面感情を自然に託した作品により風景画史に新生面を切り開いた。しかし初期の《山上の十字架》(テッチェン祭壇画。1808)や《海辺の僧侶》(1810)などは,そうした新しさのために時代からは理解されなかった。作風は,生涯を通して大きく変わることはなく,海,山,森,廃墟などを緻密な細部描写をまじえながら描き,色彩も北方の風土を象徴するように概して暗い。作品中に人間の占める比重はけっして大きくはないが,背面で描かれることの多い彼らは作者の内面感情の担い手として重要な意味をもっている。基本的なテーマは自然に託された神へのあこがれ,無限との交感,死と再生あるいは復活への予感でそれらを象徴的,主観的,あるいは寓意的に描いた。その意味で後の写実派や印象派の風景とも性格を異にする。彼の芸術は,死後長らく無視され,忘れられていたが,現在ではドラクロア,ターナーなどとともにロマン主義絵画を代表するものとして高い評価を得ている。なおP.O.ルンゲ,ダール,カールスら,フリードリヒの周辺に集い,ドレスデンで活動したロマン派の画家を〈ドレスデン派〉と呼ぶ。
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世界大百科事典(旧版)内のフリードリヒの言及

【チューリンゲン】より

… 彼の息子ルートウィヒは,1130年皇帝ロタール2世よりチューリンゲン方伯に叙せられ,37年グーデンスベルク家のヘドウィヒと結婚して,ヘッセン地方の大部分を得た。彼のあとを継いだルートウィヒ2世峻厳侯Ludwig II Eiserne(1128ころ‐72)は,皇帝フリードリヒ1世の妹ユーディットと結婚し,同帝とザクセン公ハインリヒ獅子公の対立にあたっては,もっぱら皇帝側の前衛として活躍した。次のルートウィヒ3世敬虔侯は,57年皇帝フリードリヒ1世のイタリア遠征に随行し,ハインリヒ獅子公との関係決裂にさいしては皇帝を助け,また第3回十字軍に参加して,90年帰途キプロスで死んだ。…

【ザクセン】より

…そして,同家のハインリヒ獅子公は,事実上,旧部族領域全体に大公権を及ぼすとともに,北東方のスラブ人諸公国をも支配下におくことにより,ほとんど国王類似の地歩を北方に築くにいたった。しかし,このことが逆にシュタウフェン家の皇帝フリードリヒ1世との対立を不可避ならしめ,結局,1180年の裁判によって獅子公は失脚する。このとき,ザクセン大公領は解体され,大公権は,ケルン大司教に分与された南西部をのぞきアスカニア家Askanierに与えられたが,そのどちらもまた,後に再び大公位に昇格した(1235)ウェルフェン家も,みずからの大公権を基礎として旧ザクセン大公領を再建することができず,爾来この地域では多くの聖俗領邦の分立状態が定着する。…

【ブランデンブルク】より

…しかしこの両家の辺境伯たちはブランデンブルクに居住しなかったので,貴族や都市が独立化して領内の政治が乱れたばかりでなく,対外的にも,ラウジッツはボヘミアやザクセンに奪われ,ノイマルクは1402年ドイツ騎士修道会に売却された。15年にいたって,皇帝ジギスムントは,ホーエンツォレルン家のニュルンベルク城伯フリードリヒ6世を,ブランデンブルク辺境伯(フリードリヒ1世)に封じ,選帝侯位をも与えた(授封式典は1417年)。フリードリヒは領内の秩序再建につとめ,都市と結んで貴族の勢力をおさえ,また近隣諸侯の攻撃をもしりぞけて威信を高めた。…

【ブランデンブルク】より

…しかしこの両家の辺境伯たちはブランデンブルクに居住しなかったので,貴族や都市が独立化して領内の政治が乱れたばかりでなく,対外的にも,ラウジッツはボヘミアやザクセンに奪われ,ノイマルクは1402年ドイツ騎士修道会に売却された。15年にいたって,皇帝ジギスムントは,ホーエンツォレルン家のニュルンベルク城伯フリードリヒ6世を,ブランデンブルク辺境伯(フリードリヒ1世)に封じ,選帝侯位をも与えた(授封式典は1417年)。フリードリヒは領内の秩序再建につとめ,都市と結んで貴族の勢力をおさえ,また近隣諸侯の攻撃をもしりぞけて威信を高めた。…

【プロイセン】より


[騎士修道会国家プロイセン]
 プロイセン人は固有の部族宗教を奉じ,10世紀の末プラハ司教アダルベルトがこの地に布教を試みて殉教したのをはじめ,その後ポーランド王による一時的な支配とキリスト教化の努力にもかかわらず,13世紀初頭まで頑強にその政治的・宗教的な独立性を保った。1126年,ポーランドのマゾビア(マゾフシェ)公が,プロイセン人を服属させるためにドイツ騎士修道会を招致すると,皇帝フリードリヒ2世も勅状によってこの企てを是認し,占領地に対する支配権を約束した。騎士修道会は,およそ半世紀に及ぶ激しい戦闘を通じて,83年までにプロイセンの征服をなしとげ,皇帝・教皇の支持のもとで,帝国諸侯のそれに匹敵する強力な領邦主権をこの地にうち立てた。…

【ホーエンツォレルン家】より

…始祖は南西ドイツ,シュワーベン地方の貴族で,本城があったツォレルンの丘から11世紀にこの家名が生まれた。1191年,当主フリードリヒ3世が結婚を通じてニュルンベルク城伯の位を得,フリードリヒ1世と称した。1227年,所領の分割相続により,フランケン系とシュワーベン系に分かれる。…

【ブランデンブルク】より

…しかしこの両家の辺境伯たちはブランデンブルクに居住しなかったので,貴族や都市が独立化して領内の政治が乱れたばかりでなく,対外的にも,ラウジッツはボヘミアやザクセンに奪われ,ノイマルクは1402年ドイツ騎士修道会に売却された。15年にいたって,皇帝ジギスムントは,ホーエンツォレルン家のニュルンベルク城伯フリードリヒ6世を,ブランデンブルク辺境伯(フリードリヒ1世)に封じ,選帝侯位をも与えた(授封式典は1417年)。フリードリヒは領内の秩序再建につとめ,都市と結んで貴族の勢力をおさえ,また近隣諸侯の攻撃をもしりぞけて威信を高めた。…

【ベルリン】より

…しかしそれも長くは続かず,1539年に始まる宗教改革,16世紀後半のペストの流行(住民数8000程度であった両市で1576年に4000,98年には3000の死者),さらに直接の戦場にはならなかったものの三十年戦争などの影響を受け,両市は長い沈滞期を迎えた。 この沈滞に終止符を打ったのは,ベルリン生れの大選帝侯フリードリヒ・ウィルヘルム(在位1640‐88)であった。彼は1658年から85年にかけ,ベルリンとケルン,および1667年に市となったフリードリヒスウェルダーFriedrichswerderを囲む城壁を築き,これを城塞化するとともに,濠の外にウンター・デン・リンデンUnter den Linden通り(1647敷設)をはさむドロテーンDorotheen市を建設し,さらに,のちにベルリンの中心街となるフリードリヒFriedrich市の建設にも着手した。…

【ハイデルベルク教理問答】より

改革派教会の教理問答。ファルツ選帝侯フリードリヒ3世(在位1515‐76)は領主となったのちルター派から改革派に改宗し,領内をこの信仰で統一すべくハイデルベルク大学の神学者に教理問答を作らせた。おもな起草者はウルジヌスZacharias Ursinus(1534‐83),助言者にオレウィアヌスCaspar Olevianus(1536‐87)がいた。…

【ブランデンブルク】より

…しかしこの両家の辺境伯たちはブランデンブルクに居住しなかったので,貴族や都市が独立化して領内の政治が乱れたばかりでなく,対外的にも,ラウジッツはボヘミアやザクセンに奪われ,ノイマルクは1402年ドイツ騎士修道会に売却された。15年にいたって,皇帝ジギスムントは,ホーエンツォレルン家のニュルンベルク城伯フリードリヒ6世を,ブランデンブルク辺境伯(フリードリヒ1世)に封じ,選帝侯位をも与えた(授封式典は1417年)。フリードリヒは領内の秩序再建につとめ,都市と結んで貴族の勢力をおさえ,また近隣諸侯の攻撃をもしりぞけて威信を高めた。…

【プロイセン】より


[騎士修道会国家プロイセン]
 プロイセン人は固有の部族宗教を奉じ,10世紀の末プラハ司教アダルベルトがこの地に布教を試みて殉教したのをはじめ,その後ポーランド王による一時的な支配とキリスト教化の努力にもかかわらず,13世紀初頭まで頑強にその政治的・宗教的な独立性を保った。1126年,ポーランドのマゾビア(マゾフシェ)公が,プロイセン人を服属させるためにドイツ騎士修道会を招致すると,皇帝フリードリヒ2世も勅状によってこの企てを是認し,占領地に対する支配権を約束した。騎士修道会は,およそ半世紀に及ぶ激しい戦闘を通じて,83年までにプロイセンの征服をなしとげ,皇帝・教皇の支持のもとで,帝国諸侯のそれに匹敵する強力な領邦主権をこの地にうち立てた。…

【三十年戦争】より

…これが戦争の発端である。
[ボヘミア・ファルツ戦争(1618‐23)]
 ボヘミアの反乱軍にはオーストリアの新教徒も味方して蜂起し,トランシルバニア(ジーベンビュルゲン)侯も皇帝に反旗をひるがえして,反乱はボヘミア外にも拡大したが,その渦中の1619年に皇帝マティアスが死亡して,フェルディナント2世が皇帝位につくと,ボヘミア議会はフェルディナントのボヘミア王位を取り消して,新教連合の指導者ファルツ選帝侯フリードリヒ5世を国王に選んだ。このため戦争のドイツ全域への波及は不可避の形勢となったが,フリードリヒ5世がカルバン派であったことが災いして,多くの新教派諸侯の援助をうることができず,当時スペイン接近をはかっていた義父のイギリス王ジェームズ1世も動かなかった。…

【チェコ】より

…プロテスタントの抑圧者として知られるフェルディナント世(在位1619‐37)がハプスブルク家によってボヘミア王に指名されると,チェコのプロテスタント貴族は彼の即位を拒否し,1618年5月,派遣されてきた国王参事官をプラハ城の窓から外に投げ出す事件を起こした(三十年戦争の発端)。反抗する貴族たちはカルバン派のファルツ選帝侯フリードリヒ5世Friedrich Vをボヘミア国王に選んだ。これに対し,フェルディナントはスペインの支援を受けてチェコを攻撃し,1620年プラハ近郊のビーラー・ホラの戦でチェコ貴族の率いる傭兵軍を粉砕した。…

【ビーラー・ホラの戦】より

…この事件を契機として貴族たちの行動が激しくなり,国内からイエズス会士やカトリック高位聖職者が多数追放されるにいたった。19年8月,ボヘミア身分制議会は,フェルディナントを廃し,イギリス王ジェームズ1世の娘婿で,カルバン派のファルツ選帝侯フリードリヒ5世(ボヘミア国王,在位1619‐20)を新王に選んだ。これを反逆と見なしたフェルディナントは教皇,スペインなどの支援を受けて,傭兵軍を組織し,ボヘミアに攻め入った。…

【ファルツ】より

…この宮中伯領は12世紀以降ライン川右岸地域にも広がり,その中心都市はハイデルベルクであった。13世紀はじめ皇帝フリードリヒ1世はこれをウィッテルスバハ家に授封,1356年の金印勅書で宮中伯は選帝侯に任ぜられた。1386年創立のハイデルベルク大学はこのファルツ選帝侯のつくった大学である。…

【ドレスデン】より

…三十年戦争で,1635年プラハ条約によりラウジッツが選帝侯領に加えられると,ドレスデンはエルツ山脈の鉱山地帯と広い農村繊維工業地域を後背地にして経済的に繁栄する。トルコ戦争に参加し,ポーランド王(アウグスト2世)も兼ねた選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世(強王)Friedrich‐August I(1670‐1733)の時代には,18世紀ドイツ・バロックの真珠といわれるフラウエン教会,ツウィンガー宮殿,日本宮殿なども建設され,マイセン磁器もこのころ始まる。3回にわたるシュレジエン戦争,ついでナポレオン戦争による戦禍を受け,政治的には衰退した。…

【廃墟】より

…また孤絶の美学を荒れ果てた墓地にもとめるT.グレーらの墓畔詩人もここから生まれた。さらにC.D.フリードリヒをはじめとするロマン主義の画家たちは自然の荒々しい力の隠喩を廃墟に認め,自我をもつ存在(個人)の内面的葛藤を際立たせる神聖な画題としてこれを描いた。また彼らにとって廃墟は,物質的な現実が滅び霊的な未来が訪れることの暗示でもあった。…

※「フリードリヒ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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