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ジノビエフ Zinov'ev, Grigorii Evseevich

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ジノビエフ
Zinov'ev, Grigorii Evseevich

[生]1883.9.11. エリザベートグラード
[没]1936.8.25. モスクワ
ソ連の政治家。ユダヤ人。ベルンで法律学を学んだ。 1901年ロシア社会民主労働党に入り,ボルシェビキに所属,07年中央委員となり,V.I.レーニンの片腕としてロシア内外で革命運動に参加。 08年亡命,17年3月レーニンとともにドイツ経由で帰国したが,十月革命に際しては時期尚早として武装蜂起に反対した。革命後ペトログラード・ソビエト議長,19年創設されたコミンテルンの中央執行委員会議長,また 21年党政治局員に就任。レーニンの死後はソ連政治の中心指導者の一人となった。 I.スターリン一国社会主義路線を批判してトロツキーらとともに反対派を構成。 27年に党を除名され,その後自己批判して 28年に復党したが,36年合同本部事件被告として L.B.カーメネフとともに処刑された。主著『ドイツ革命の諸問題』 Probleme der deutschen Revolution (1923) ,『レーニン主義』 Leninizm (25) 。

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百科事典マイペディアの解説

ジノビエフ

ソ連の革命運動指導者。ユダヤ人。初めロシア社会民主労働党に属し,1903年の分裂でボリシェビキとなった。レーニンの片腕となって活躍。十月革命ペトログラードのソビエト議長,1919年第三インターナショナル(コミンテルン)議長となり,レーニン死後はカーメネフスターリンと党主流派を形成した。
→関連項目キーロフソビエト連邦共産党

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世界大百科事典 第2版の解説

ジノビエフ【Grigorii Evseevich Zinov’ev】

1883‐1936
ソ連邦の革命家,政治家。ユダヤ人。本名ラドムイスリスキーRadomysl’skii。1901年,ロシア社会民主労働党(後の共産党)に入り,02年スイスに亡命しベルン大学に学ぶ。05年にロシアに帰還,07年以降党中央委員,08年再度亡命し,以後二月革命の勃発までレーニンと行動を共にし,レーニンの第一の副官といわれる。17年4月帰国,十月革命前夜には武装蜂起に反対したが,革命後もペトログラード(後のレニングラード)・ソビエト議長,コミンテルン議長などの要職をつとめる。

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大辞林 第三版の解説

ジノビエフ【Grigorii Evseevich Zinov'ev】

1883~1936) ソ連の政治家。コミンテルンの創設に尽くし、その議長を務める。スターリンの一国社会主義路線に反対して除名、大粛清で処刑された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ジノビエフ
じのびえふ
Григорий Евсеевич Зиновьев Grigoriy Evseevich Zinov'ev
(1883―1936)

本名ラドムイスリスキーРадомысльский/Radomsl'skiy。旧ソ連共産党の指導者。ユダヤ系。1901年よりロシア社会民主労働党の活動に入り、03年以降はボリシェビキ派に属する。05年革命後、亡命地でレーニンの片腕として活動、17年、二月革命後にレーニンとともに「封印列車」で帰国したが、同年の十月革命を準備する過程で時機尚早を唱え、新聞紙上で蜂起(ほうき)に反対したため、レーニンからストライキ破りと攻撃された。十月革命後はペトログラード(後のレニングラード、現サンクト・ペテルブルグ)・ソビエト議長とともにコミンテルン(第三インターナショナル)執行委員会議長をも兼務(1919~26)、国際革命運動を指導した。レーニンの発病後、スターリン、カーメネフと「トロイカ」指導体制を形成して党主流となり、23~24年には反トロツキー・キャンペーンを繰り広げた。しかし、25年カーメネフとともにスターリンの一国社会主義論に反対し、26年トロツキーと結んだが敗れ、27年に党を除名された。以後、影響力を失い、復党、除名を繰り返すが、35年にはキーロフ暗殺事件扇動の罪で10年の刑を宣告された。さらに36年8月、トロツキスト・ジノビエビスト「テロリスト・センター」組織の罪でついに処刑され、これがスターリンによる「大粛清」の第一歩となる。彼はまた、1924年イギリス共産党に蜂起を教唆したとされる「ジノビエフ書簡」事件でも有名。ソ連はこれを偽造文書としたが、この事件は同年のイギリス総選挙での労働党の大敗を招き、英ソ関係を悪化させるなど大きな影響を及ぼした。1988年、ペレストロイカに伴い名誉回復された。[藤本和貴夫]
『川内唯彦訳『ロシア社会民主労働党史』(1928・同人社書店)』

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世界大百科事典内のジノビエフの言及

【カーメネフ】より

…17年二月革命後,流刑地のシベリアから戻り,首都ペトログラードのボリシェビキ党指導者となるが,当初は臨時政府条件付き支持の立場をとった。十月革命準備の過程でジノビエフと共に武装蜂起に反対。蜂起後は他の社会主義政党との連立を唱えた。…

【ソビエト連邦】より

…その直後レーニンは発作を起こして廃人となり,1年後に死去した。この間スターリンはジノビエフカーメネフと協力してトロツキー派を抑え込むことに成功した。次いで一国社会主義論を採ったスターリンとブハーリンは提携して,ジノビエフ,カーメネフ派と争い,27年にはトロツキー派とも組んだこの合同反対派を完全に失脚させた。…

【ソビエト連邦共産党】より

…17年の二月革命後,カーメネフ,スターリンらは臨時政府を条件付きで支持する方向にあったが,スイスから帰国したレーニンは四月協議会で〈全権力をソビエトに〉のスローガンのもとに,権力奪取を主張し,またトロツキーらのグループも入党した。ジノビエフらの反対論もあったが,10月25日(西暦の11月7日)の武装蜂起により第2回全ロシア・ソビエト大会は全権力を掌握し,左派エス・エル党も加わった形での革命権力が生まれた。18年には,ブレスト講和問題や食糧問題をめぐって左派エス・エル党はボリシェビキ権力と対立したため,ここにボリシェビキの一党制が確立し,反革命軍や外国からの干渉軍との戦いが本格化する戦時共産主義期を迎えた。…

【大粛清】より

…34年の〈勝利者の大会〉と呼ばれた第17回党大会においては,表面的にはスターリンへの信従がのべられ,党主流,特にスターリンによる治安警察を介したテロル支配への障害が取り除かれた。しかし,スターリンに次ぐ有力な指導者キーロフが34年12月に謀殺されると(キーロフ暗殺事件),スターリンはただちに治安当局を督促して,ジノビエフらの旧レニングラード反対派を逮捕し,36年7月,第1次モスクワ裁判を組織して粛清をはじめた。ジノビエフらは〈トロツキー=ジノビエフ合同本部事件〉という見世物裁判において検事の偽造した自己の犯罪をすすんで認め,裁判後,銃殺された。…

【ロシア革命】より

… この9月,潜行中のレーニンは臨時政府打倒の武装蜂起の決行を同志に提案したが,党中央委員会はただちには賛成しなかった。とくにジノビエフカーメネフという古参の大幹部は強く反対し,党外でその態度を表明した。権力掌握への準備は首都ソビエトの議長となったトロツキーの考えで進められ,10月12日反革命からのソビエトの防衛という目的で軍事革命委員会が設置された。…

※「ジノビエフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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